ヨハネによる福音書の話

 参院予算委員会喜納昌吉議員(民主党)が麻生総理に「クリスチャンでしょ?神に誓って指揮権は発動してないといってください」とか詰め寄っていたのですが(何で外交関係の集中審議に小沢代表の秘書の逮捕の件が?)、それに対して麻生氏が「私はカトリックです。クリスチャンっていうのとちょっと違う」みたいなことを答えていまして、両方とも何だかなあとため息。日本の議会で神かけていわせて言質を取ろうとする側も、それに答える側のおおぼけも(もちろんクリスチャン⊃カトリックなわけで)、こういうのを生中継する意味ってどれだけあるんだろうと思わせるものでした。
 さて、今日は病院へ行くので年休を取っていたのですが、待合で読んでいたのがバート・D・アーマン『捏造された聖書』(柏書房)。妙に扇情的なタイトルですが、中身は至ってまともな聖書のテキスト・クリティークのお話。たとえ聖書が「霊感」によってもたらされた言葉だとしても、そのオリジナルのテキストなんてどこを探せばいいんだい?という感じで、聖書学の現場のお話をわかりやすく解説してくれる面白い本でした。


 その中で一つびっくりしたのが、あの

 汝らのうちまず罪無き者より石を投げよ

 という『ヨハネによる福音書』のエピソード、信者でもない私でさえ憶えていて確かわりかし最近に引用までしていたあの一節(ヨハネ7.53−8.11)が、もともとのテキストには無かっただろうとされていることでした。で、新共同訳の聖書を見てみると確かにこの「姦通の女」のエピソードには前後に括弧[]がつけられていて、なるほどちょっと特別扱いされているなと発見した次第です。たぶん知る人ぞ知る有名な話だったのでしょう。
 『ヨハネ』についてこの本では、

 この福音書新約聖書の中の他の三つの福音書とは全く違うもので、物語の内容も違えば、文体も全く異なっている。『ヨハネ』の中では、イエスの言葉は簡潔かつ直接的な語録というより、長々とした講話だ。例えば、『ヨハネ』のイエスは他の三つの福音書のイエスと異なり、全くたとえ話をしない。さらにまた、『ヨハネ』の中で語られる出来事は、しばしば『ヨハネ』にしか登場しないのだ。…イエスその人の描写もまた全く違っている。他の三つの福音書とは違って、『ヨハネ』のイエスは自分の正体(天から遣わされた者)を説明することと、かつそれが真実であることを証明する「しるし」を行なうことに時間を費やす。
 ヨハネが自分の物語の資料を持っていたことは間違いない―たぶん、イエスのしるしを物語る資料や、彼の講話を記した資料などだろう。彼はイエスの生涯、伝道、死、復活を語る淀みない物語の中に、これらの資料を混ぜ込んだ。(p.82)

 と説明しますが、さらにその中の「姦通の女」のエピソードなどは「オリジナルには入っていなかった」もので、後代の書記によって付け加えられた話だとするのです。

 まず、この物語は現存する『ヨハネによる福音書』の中で最古の、そして最良の写本の中に入っていない。さらに、その文体は『ヨハネ』全体と全く異なっている(その前後の物語とすら違っている)。そしてこの物語には、この福音書の他の部分には全く出てこない単語やフレーズが大量に登場する。というわけで、結論はただひとつ―この条は、『ヨハネ』のオリジナルには入っていなかった。(p.87)

 ではこの話は何なのか?これについては諸説あるということで、「たぶん、イエスに関する口頭伝承のひとつとして知れ渡っていたもの」が「ある時写本の余白に書き込まれて」、それを見た書記か関係者の誰かが「本文だと思って『ヨハネ』七章五二の話の直後に挿入した」のではないかと考える向きが多いそうです。

 注目すべきことに、この話を新約聖書の別の場所に挿入した書記もいるのだ―例えばある者は『ヨハネ』二一章二五の後に。またある者は、面白いことに『ルカ』二一章三八の後に挿入している。いずれにせよ、それを書いたのが誰であれ、ヨハネでないことは確かだということだ。(p.88)

 もちろん聖書学と信仰は同次元で語られるものでもありません。信徒ではない私でもこのエピソード自体の宗教的意味には何事か感じますし、まさかそれを「捏造」とか言うものではありません。
 それとは違った興味で、このテキスト・クリティークのお話は非常に面白く、待合で待っている時間が(およそ1時間半でしたが)むしろ短く感じられたのでした。