妊娠中絶・パーソン論など

 ⇒「マザー・テレサは間違えている。」(Something Orange)
 マザーテレサのどこが間違えていたとできるのか、その結論が今ひとつわからなかったのですが、何度か読んで「母(体)は胎児と一体。そこには無条件の自己決定権がある」という主張かなと思えました。それゆえその母親の自己決定権に口を挟む行為は誰にも許されず、どれほど善意で介入しようとしたとしても他者であるマザー・テレサには正当性はなかった…ということなのではないかと。


 母親の自己決定権を優先する考え方はいわゆるリベラル派の議論として挙げられるもので、そこでは盛んに「パーソン論」が言われます。人格として認められない胎児の権利に対して、母親の自己決定権が優先するという考え方です。
 でもkaienさんはこのパーソン論も否定した上で、母子一体であるが故に母親の自己決定権が認められねばならないという主張をなさっているように思われます。「自分の肉体が自分のものである」という「第一の権利」になぞらえてその説は為されるのですが、母親と胎児が一体であると考えられるかどうかはまさにそのパーソン論で問題となるポイントでありますし、もし胎児に人格(パーソン)があるとできるならば「自分の肉体は自分のもの」であるとしても「胎児は自分の肉体と同列のものではない」ことになるのです。これもまたパーソン論あたりで議論されていることでもありまして、大家さんと借家人の権利関係というものになぞらえられたりもしています。


 またkaienさんのパーソン論批判なのですが、確かに批判点としてここに書かれたものも重要とは思いますが、「人格」(あるいは人格様のもの)としての基準に意識、特に苦痛を感じる能力を持ってきた議論になりますと、トゥーリのパーソン論を否定し得たとしてもそれは決定的な否定とはならないでしょう。
(たとえばピーター・シンガーの種主義否定の立場などがそうした議論の例になるのでは?)
 実際、パーソン論の捉え方を否定して母親の自己決定権を通そうとするのはかなり難しいのではないかと考えます。説得力をもった議論になるには、さらに煮詰めなければならないのではないかと愚考。


 そして何より、ほっといてくれといわれて抛っておけなかったのがマザー・テレサだったでしょうし、この記事を読んでも、マザー・テレサご自身は黙って自分の為すべきことを続けただろうなと思えるのです。


 ⇒「妊娠中絶についての生命倫理学的議論」