ひとことだけ

 ⇒地を這う難破船「魂と権利の落としどころ」

 「資格がない」のは、信仰問題をアプリオリな自由意志の問題へと還元しているからです。論理的にエラーしているという話。論理的なエラーにおいて選択されるのが倫理で、倫理とは個人の個人性が要求する概念であり行為です。みちアキさんは個人の個人性を掲げるために、1歳児や妊娠4ヶ月の胎児の生命を犠牲にする議論を「故意に」展開している。

 sk-44さんとmichiakiさんのやり取りには局外者でいるつもりなのですが、この引用部分妙に引っかかりました。


 倫理という言葉が「倫(とも)の理(ことわり)」である以上、それは個人が弧在しているだけの場面には出てこない概念だと考えます。倫理が問題となるのは他者が存在するところです。
 つまりそれは、ある集団的な「理」に対してある個人(やグループ)がどう関わるかが問われる時であって、その時その集団に対して個人は他者となり、その個人(やグループ)にとってある集団も他者となっているといえるのではないかと思うのです。
 無条件に理解できない。あるいは何を考えているかわからない。そういう「他者」と対峙し合うのが、倫理が問題となる時なのではないでしょうか。


 「倫理とは個人の個人性が要求する概念であり行為」とは、その決断性を言われているのかとも少し思えましたし、あるいは、皆同じことを考えているといった場合ではそこに倫理があったとしても倫理の問題は出てこないといった感じのことをおっしゃっているのか…、とも考えてみたのですが何となくひっかかります。


 また「信仰」は独自の論理を持っていますので、世俗の解釈・論理と異なっていたとしてもそれを「論理的エラー」とは言えないと考えます。
 エホバの証人の倫理問題は、通常の倫理と異なった「理」を持ったグループと社会との間の他者問題であろうと思います。michiakiさんのように「他者の信念」としてそれを尊重するという姿勢も、一つの立場ではあるでしょう。ただし輸血問題に限って言いますと、そこに信仰主体としての大人ではない「子供」が絡んできているがゆえに、単純に愚行でも何でも許容すればよい…とはいかない難しさがあるのだと思います。


 マジョリティの「理」が一つの権利を主張するとき、その理は省みられなくても良いのか、ということに対しての問題提起になっていると私は受け取りました*1。ですから、これ以上口を挟むことは考えていませんが、michiakiさんの言葉は「テキトーな思考実験」とは私は思いません。(そしてこれはsk-44さんらしくない、と勝手に思ってしまったのですが、トンデモという言葉を最後のあたりで投げ掛けたのは、マジョリティの理は当然過ぎて疑う必要もない…と言っているようにも聞こえてしまったのでした)

*1:それがmichiakiさんの本意だったかどうかには関係なく、です