二つのスタンダード

 平成10(1998)年7月28日の朝日新聞「こころ」欄では、大本教団が臓器移植法に反対しているという内容の記事が書かれていました。

 脳死者からの臓器提供に道を開いた「臓器移植法」が昨年六月に成立して一年が過ぎた。法案成立前は反対や疑問を示す声明も出した宗教界も、その後は大きな動きがない。現在も議論が分かれて統一見解を示せない教団も多いが、教派神道の「大本」は積極的な反対運動をしている。(池田洋一郎)

 こういうリードで書き始められた記事には、いくつかの宗教団体の意見や苦衷が記されています。
 大本が反対運動をするのは「脳死・臓器移植の推進は、人間を部品の集合体とみなし、科学万能、物質中心の生命軽視の風潮を助長するのではないか。それに歯止めをかけたい」という意志の現れと書かれていました。
 天台宗は「心身一如を基本とする仏教の立場からは、脳死を人の死とは認めがたい。だが本人が書面で意思を表示していれば、臓器提供は布施の行為として認められる」という見解で、(この記事の時点で)同じく脳死を人の死とすることに反対の立場の宗教団体として、真宗大谷派、浄土宗、立正佼成会金光教などの名も。
 これに対してここでは統一見解をいまだ示せていない教団として、浄土真宗本願寺派曹洞宗神社本庁天理教日本基督教団などの名が挙げられ、それぞれの理由も次のように書かれています。

「議論を重ね、報告書も出したが、まだコンセンサスが得られていない」(浄土真宗本願寺派


神道には教義や経典がないので、明確な見解を示すのは難しい。多くの考え方があり、見解を統一してしまうとむしろ混乱を招くのではないか」(神社本庁


「お釈迦様のころとは時代が変わり、当時はなかった問題で今、見解を出すのは難しい」(全日本仏教会


「この種の問題で見解を統一させる必要があるのか疑問だ。個々の信者が、自らの信仰に照らし合わせて、ケース・バイ・ケースで対応すべきではないか」(天理教

 人の死を巡る大きな問題に対してですが、宗教界の判断もいろいろだったことが窺えます。


 さてこのように様々な教団が賛否を表明したりできなかったりした臓器移植法の施行に関してですが、実際の現場では取りあえず混乱のようなものは見られていません。当然ながら「まず法に照らして」行為が判断されるという基本線があって、個々人の倫理判断はその後に(ある意味別次元に)あるという前提だからです。
 近代市民社会で生きるということは、法的次元のスタンダードと、思想・信条の次元のスタンダードの両方に従って生きることが許されるということなのですが、思想もしくは宗教的理念に従っての行為でも法に触れるならば罪になるという前提の上で、個々の信条の自由が確保されているとも考えられます。
 本義での「確信犯」が許されないという前提で法治が成り立っている以上、思想・信条・宗教的信念等々は自ずから遵法の枠内に制限されます。しかしながらこの制約がすべての思想、信念にかけられていることで、各々の内面の自由を尊重できるということではないかとも受け取れるのです。言い換えますと、私たち一人一人は信者である以前に社会を構成する市民であるということですし、その大前提(ある意味妥協)でお互いの信条を認め合う社会を成り立たせているということなんだと思います。


 そして「国教」のようなものが成立しない限り市民社会での信条の自由は確保されていますので、どこかの教団が「脳死は人の死ではない」といおうが「胎児に人権がある」といおうが、それは誰に対しても最終的な強制にはなり得ないと私は考えます。棄教の自由というものもありますから。
 この点で地下猫さんの「胎児はいつからニンゲンとなるのか?」の記事中、

・自然科学において新たに得られた知見が恣意的な宗教的価値判断と結びつき、他者に強制される
ということがここでおこったことにゃんからね。
(下線は引用者)

 というように書かれているのは、ちょっと理解し難く思うところです。それは宗教的スタンダードの側面でしかないでしょう。カトリックの人ならば、この自分たちの教団の意思決定と葛藤もありましょうが、最終的にはそれを理由にカトリックから離れるということで「個人の自由」はいささかも侵害されずにすむのですから。(あるいは同志を募り教団の決定を左右するという方法だってあるとは思いますが)


 ちなみにこの臓器移植法についてカトリック

 バチカンの科学アカデミーが「脳死を人の死」と認めており、臓器提供も「愛の行為」として肯定するが、「死は神と個人の領域に属しており、死の定義を法制化するのはふさわしくない」(カトリック中央協議会)との立場だ。

 という記述が記事にありました。


 記事中明らかにされている大本の考え方は次のようなものでした。

 大本が脳死・臓器移植に反対するのは、肉体と霊魂のかかわりを重視する教祖出口王仁三郎の教えに基づく。これまで発表した声明では「人間は元来、霊魂と肉体からなる有機的統一体であり、その主体性は霊魂に存在し、肉体は霊魂の容器であり、死は心臓の鼓動がまったく停止し、霊魂が肉体から完全離脱した時を言うのであって、心拍のある脳死状態は、個体死でなく脳の部分死にすぎない」と強調する。
 広報・渉外室長の松田一さんは「霊魂も肉体も創造主から一人ひとりに与えられているものであって、いわば創造主からの借りもの。己の意志で他人に与えることはできないのではないか」という。とはいえ、移植を必要とする患者が現実に存在し、人工臓器も実用化されていない現時点では、脳死を前提としない限り、臓器移植はやむを得ないという立場だ。

 これに対して批判するのも、賛意を表するのも基本的に自由です。霊魂なんて馬鹿馬鹿しいという意見だってあるでしょう。
 ただ、大本がこういう意志を表明したからといって、それは「他者への強制」の問題とはならないと思いますし、それは信者数16万ほどの大本でも10億を超えるとされるカトリックでも同じだと私は考えています。