進学とお金

 少し前の記事ですが、「私大生の仕送り過去最低 月9万5700円/7割が奨学金希望」産経新聞)というものがありました。これによると「首都圏の私立大に昨春入学した自宅外通学の学生への仕送り額(6月の平均)は9万5700円」で、「仕送り額から家賃を引いた生活費は3万6000円」。いずれもかなり低い水準であったとのこと。確かにこれでは学生も親御さんも厳しいでしょう。
 また記事中、東京私大教連の提言として「国は私学助成の充実などで、進学の機会を保障すべきだ」とありました。理解できなくもありませんが、筋としてはむしろ「地方国立・公立大学」で進学の機会保障がなされるべきではないかと私は思いました。
 上記金額に絡んで「家賃は月額6万円前後」というところは無視できないでしょう。つまり地元の大学に通学できるならば、この月6万円分は無しにできるのです。


 社会学者のピエール・ブルデュー*1は、個人の持っているあらゆる特性を「資本」と捉えました。たとえばそれは「文化資本」(知識・教養)であったり、「社会的資本」(社会的地位や威信)であったり、「学校的資本」(出身校や取得した資格)などというのも…。
 およそあらゆるそうした特性を「資本」とすることによって彼が目論んだのは、それらを(擬似的にも)定量化して、階層分析などの局面に組み込むということでした。つまり「文化」を定量化して社会分析に組み入れて論じることを可能にしようとしたのです。
 またそこでは、異なる「資本」の間での変換のメカニズムというものも考えられていて、あくまで擬似的にではありますがより科学的なアプローチを、社会学に持ち込もうともしていたのでした。

 経済的資本と文化資本に恵まれる家庭出身の者は、学校という機構の中で有利に学業を進め、多量の学校的資本と知的優秀性の認証を獲得することになるが、それは出身家庭の資本が新たな資本(文化資本、社会的資本)に変換されたということであり、社会的再生産のプロセスなのである。

 このブルデューの方法は個人的にはいささかうさんくさいところもあると考えています。むしろ結論(言いたいこと)の側から論を組み立てたのではないかと思える節もありますし、何より文化的・社会的ヒエラルキーが確立(固定)しているフランス社会ほどには、この方法がたとえば日本にうまく当てはまらないような感があるからです。
 ただ作業仮説としてはかなり面白いアイディアだという気はします。そしてブルデューのひそみに倣えば、「出身家庭の資本」として「地域(格)差」というものが今の日本では無視できないものなんじゃなかろうかとも少し思います。


 むやみに都市圏に私大が増えても、もちろんそれは進学希望者の受け入れ先になるとか教育の多様性を確保するとかのポジティブな面も持つのですが、地域格差の側面についてはこれを助長するばかりであると言えましょう。本当に進学だけが問題なのでしたら、都会の私大に行くということにあまり積極的な意味がないということは言うまでもありません。親の負担などを考え合わせても、地方の国公立への梃子入れがより合理的なのではないかなと思われます。
 学びたい者が学べる社会は素晴らしいとは思いますが、それは都会の私学助成に直結するものでもないだろうという感想を持ちました。

*1:Pierre Bourdieu, 1930/8/1-2002/1/23