夢バブル

 80年代あたりからやたら歌詞に「夢」という語が頻出するようになったのではないか、というのは前から何度か書いてきたことです。もちろん「圭子の夢は夜開く」だとか「あなた」(それが私の夢だったのーよー)とかそれ以前の楽曲に夢という言葉が無かったわけではないのですが、出現率というか遭遇率が急に伸びたように思われるのが80年代半ば以降ですね。ラダトームのお城の近くのはずなのに、ボスキャラのいるダンジョン(しかも夜)みたいに次々エンカウントしてしまう…という感じ。


 ああいった歌詞にクリシェのように出てくる「夢」っていうのはもう何だか軽いんですね。真剣にそれに向かって進む階梯…とかいうのはすっ飛ばして、大きな夢さえ持っていれば自分も大きく見えるという、それが(それだけが)目的であるかのような刺身の短冊の上の菊のようなもの。ただただ「自分は(ほんとは)これだけの自分じゃないぞ〜」というのが言いたいがための、そういう小道具のようなもの。
 ここでの「夢」はレバレッジ効果をお気楽に得んがためのものだったんじゃないでしょうか。


 (本当の)自分 = 今の自分にできること + 夢


 みたいなものです。夢を宣言することによって(それだけで)自分を大きく見せる。
 人によっては確かに変動性が高まるといいますか、まれにこれで転機を作ることができる人もいるのでしょうが、それはあくまで成功例から振り返って見つけられる類の宝くじ。
 実際には、安易に考えた夢にはやっぱり届かずに挫折するということのほうが多くて、大きく吹いた分だけレバレッジによって挫折感も大きく降りかかってくることが多いんだと思います。
 ただまあ逃げ道がないこともなくて、それこそ「子供の夢」みたいな茫漠とした夢想だったのだろうと、若気の至りみたいな言葉で大体のおとなは目をつぶってくれることもあり、対面は何とか保たれたりもするのでしょうが、自分が抱える挫折感のようなもの、澱のように沈殿する微妙な何かは決してそれぞれの人の将来に利するものじゃないと思うのですよ。


 で、ふと気がついてみるとどうも昨今の歌詞には「夢」がまた少なくなっているんじゃないでしょうか?これまた感覚的なものですし、歌をあまり聴かない自分が当て推量に言っているだけなので不確かなものですが。
 そういうのは世相が暗いからだとかおっしゃる方もおられるでしょう。でもよしんばそうだったとしても、夢バブルがはじけた(かも)ということ自体は評価できるんじゃないかなと感じています。
 あれはあまり善からぬことだったんです。
 野望も結構、大志もOKなのですが、やはり目標というものはそこに至る図がかけるぐらいのところから目指すのがまっとうなのじゃないかと、そう思います。
 たまたま、看護師になるのが夢みたいな言葉にぶつかって、それは夢じゃないでしょう…と口にしたところから(いろいろ経て)こんなことを考えました。そういうのも夢と言ってしまうのは夢バブルの後遺症かもしれないなあとも思えて。
 夢という言葉はあまり安売りはしないほうがいいんです。