強くなければ…

 若干古い記事ですが、ブクマにあがっていたので気付きました。
 ⇒フランスのアイデンティティを守るために追放される子供たちJANJAN
 日本でも先日のカルデロン親子の問題が騒がれましたし、またその件に関して
 ⇒毎日新聞「カナダなら家族全員で住めた」と掲載するもカナダは「韓国人母娘を追放」(ガジェット通信)
 という記事なども。また、こういうのも目にとまっています。
 ⇒豪政権悩ます難民船 政策転換後、次々とasahi.com


 いずれの国でも不法移民や難民の問題で国論が割れたりして問題になることはあるんですね。
 目の前の誰かの困窮を見ればいたたまれなくなるというのが惻隠の情で、完全な性善説には立たないまでもこの気持ちが全然無いという人は極少数ではないかと思います。でもそれでも移民が問題になってしまうのはどうしてか、ということです。


 いろいろな文脈はあろうと思いますが、一つには「権利」というものの在り方が関係しているように私には思えます。
 「権利」はそれを守る力を必要とします。ただ「権利」だと叫んでも、実効的にそれを支持する力がなければ何にもなりません。基本的には誰かの権利を守るための強制力がそこに必要とされるのです。
 現在の世界では、最低限の人権を保障するものは国家的な強制力だと考えられるでしょう。各々の国が各国民の権利、さらには人権を保障するという建前が現実的にあると思われます。他国民に対する安全等の保障も、相互主義的な考え方や普遍的な理念といったところで二次的に支持されていますが、責任を以て一義的に保護しなければならないのは自国民、という範囲になっていると認識しています。


 一つの国のリソースはもちろん有限です。移民問題はこの点で「一つのパイの取り合い」を想起させるものでもあるのでしょう。数人、数十人の人を余分に助ける力がないなどとはどこの国の人も思わないでしょうが、おそらく一人を許せば次々にやって来るものだと、そして自分たちに配分されるリソースが減少してしまうとついつい感じられて、自分たちの権利を侵す者として(本来の権利の)外からやって来る人たちに過剰に警戒感がもたれるというところがあるのだと考えます。
 もちろん外来の人々によってもリソースは増やせるのですが、その程度はなかなか想像し難いものですし不可視です。それが大きいと思えるかどうか、そういうところで移民に対する忌避感の差が生まれて意見が割れるのでしょう。


 ただし忘れてはならないのは、「権利」を支える力は物理的な力、強制力には留まらないのだということです。同時にそれを支えるのは、衆意にアピールするための理念的な力なのだと思います。人権というものがかなり当たり前のものとして世界に広まったのも、革命の輸出があったりとか反人権的な国を叩きつぶす力が働いたりとかそういう強制力がどうのではなくて、人権という考え方が支持され広まったおかげだと思います。まだまだ本当に全世界が染まったとは言えないのですが…。


 「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない」というマーロウの言葉になぞらえることができる状況がここにはあります。強くなければ「権利」は保障できず、またそれが優しい(人々が納得できて支持される)ものであることがその「権利」を維持するために同時に要請されるのです。
 

 移民問題を解決したいと考えるならば(特に移民排斥は問題だと思うならば)、ただやみくもに「彼らの権利」を叫ぶだけではいけない(というより逆効果)と感じます。むしろここで必要なのは、彼らを受け容れることによって本当はたいしてあなたたちの権利は侵害されないんだよという証明、説得的な言葉だと思えます。
 ただこれはかなり難しいであろうことは容易に想像されますし、困窮のレベルも様々、その状況も多様である場合「困っている人がいるんだから助けようね」という具合に簡単には話は進まないことでしょう。それがすぐにもできるならば、これだけ各国で移民問題が騒がれたりしないわけですし…。