ある系譜

 少し前にNHKの「視点・論点」という番組で、青山学院大学福岡伸一氏が語られた回がありました。実際に私はこれを視聴したのでしたが、その後この番組の内容はNHKのサイトの解説委員室というところで公開され、それなりにブックマークを集めて(60超)話題にもなっています。
 ⇒視点・論点「ミツバチ異変と動的平衡」福岡伸一
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 ブックマークにつけられた意見は賛否両論という感じです。少なくとも一方的に支持されたり批難されたりという様子ではありません。(やや懐疑的な向きが多い気もしますが…)
 ここで福岡氏は「生命、自然、環境はすべて動的な平衡状態にある」と語り、その「動的平衡全体」を「部分的」で「機械論的」な「近代」が「効率的」たらんとして介入することに異議を唱えます。ブクマでは何を言っているのかわからないというようなご意見もありましたが、私にはこれは一つの志向を指すものに思えます。


 つまり、機械論に対する動的平衡。部分に対する全体。近代に対する近代ならざるもの。
 ここで語られているのは、そういった対立図式上の後者についての志向であり、これはかなり以前から「近代批判」の典型的な言説として脈々とあった一つの系譜に連なるものではないかと。そしてその志向ゆえに彼の言葉が一定の支持を受けメディアでも採り上げられる、ということなのだと私は考えています。

 生命、自然、環境はすべて動的な平衡状態にあるといえます

 というように、生命から自然まで包括的に語るその語り口も

 部分的な効率化は、決して全体の幸せにつながることはないのです

 というようにホリスティックに捉えようとする目線も

 近代社会が単純化しすぎた機械論的な生命観、自然観を、動的平衡の観点から考える。
そのような思考の転換

 と語るその近代批判的方向も、彼の「動的平衡」という言葉がオリジナルであるとしても、すべて以前から語られ志向されてきたある種の言説をなぞっているように思えてなりません。


 一人例を挙げるなら、たとえば福来友吉氏。東京帝国大学助教授だったときに、氏が「念写実験」などの超能力の研究で話題になり、そして批判されて職を辞さなければならなくなった経緯はあまりにも有名です。(『透視と念写』が出版されたのが大正二年(1913)、大学を辞めたのが大正八年(1919))
 福来氏は職を辞した後も「不可思議な生命現象の考察」を止めることはありませんでした。そして氏が思い至ったのはこの宇宙を「運動する有機体」であると捉える見方で、さらにそれを仏教の曼陀羅と同じものとみなすことでした。またそうした宗教論的世界観の中に物理学的な原子論まで包括して、大きな統一理論ができるのだと主張されました。氏の「生命」の観念はすべての物理現象をも包摂しうるものとなり、ここに『生命主義の信仰』(1934)が著されたのです。
 いわく「宇宙は生物である。其の辿り行く生命の理趣は一多円融の曼陀羅生活である」
 いわく「霊は空間によりて隔てられたる多数原子を統一して、此等を一体となしうる」
 いわく「宇宙の霊は神の自我で…宇宙の物質現象は凡て一つの生命となるのであります」


 今から見ればさすがにこれを科学と主張するのは無理だろうと直覚されますが、当時はそれなりに支持する人もいたということは見逃せません。詐欺的にひっかかる、というよりも真面目に頷く人たちがいたのです*1。またちょうど二十世紀の初めには、ロンドンの王立アカデミーを中心に心霊研究が世界の科学者の一定の関心を引いていたのも確かです。何も福来氏が孤立してオカルトに走っていたというわけではありません。
 「心霊学こそ二十世紀の科学」とかいう言葉もあり、降霊術や透視や念写などの神秘的な生命現象を実験し解明しようとする「神秘的な科学」が一つの方向として認知されていたのです。まあそれは結局、心霊現象と物理科学的現象が切り分けられていなかったということでしかなかったのですが。
 当時の生物学者として名高いエルンスト・ヘッケルは(彼は「個体発生は系統発生を繰り返す」ということを言い始め、エコロジーという考え方を生み出したドイツ生物学界のボスでしたが)1905年、『生命の不可思議』という大著を出しています。これは生物形態学と進化論を総合し普遍的実在としての「生命」の観念を説いたもので、世界の本質として「生命」が自己運動すると喝破し、生命一元論的哲学を編み出した書でした。(彼に影響したのはヨハン・ヴォルフガング・ゲーテの自然学、その全体論ホーリズム)的な志向です) このヘッケルの書は1915年(大正四年)に邦訳されていて、後に岩波文庫にも入り(昭和三年)、宮沢賢治が愛読して世界観に影響を受けていたともされます。
 また、同時期の生物学者ユーゴー・ド・フリース(オオマツヨイグサの栽培実験でメンデルの法則を再発見した人)の突然変異説からインスパイアされて、哲学者アンリ・ベルクソンは1907年、『創造的進化』を著しています。意識の哲学*2を考えていた彼がここで大きく向きを変え、エラン・ヴィタール(生命の跳躍)による生命力のランダムな発現、その展開する運動こそが創造的な進化であるという世界観を提示したのです。(もちろんこのエラン=跳躍に突然変異というアイディアがつながっています)機械論的な法則性に基づく目的論を破ろうとする点では、意識の哲学の発展形と見なせるでしょうが。ちなみにこのベルクソンの心霊学への傾倒もよく知られるところでしょう。


 こうした思潮は、分析的で機械論的な近代文明へのアンチ・テーゼとして周囲に受け取られたのではないかと考えられます。そして何も彼らが非科学的なものを目指したとか過度に宗教的であったとかいうことではなくて、おそらくそこにはホリスティックなものへの志向、そしてその「全体」を統括する統一理論的なものへの希求があったのだと思うのです。
 もちろんそうそう簡単に統一理論がでるわけでもありませんし、部分的におかしなところがあれば否定されるのも仕方がないこと。それでもこちらへの志向が止むことなく続いていて、それを支持する(支持したいと思う)一定数の一般の人々も存在し続けているという構図なのではないでしょうか。


 トンデモ言説とネットで揶揄されるもののかなりの部分はこうした志向の継承者であって、ただあまりに独善的で未成熟なままに自分の理論を語るがゆえに批難され、否定されるという憂き目を見ているような気がします。それらは「科学的思考の欠落」によって生み出されるというよりも、「(過剰に)全体論的な志向」「近代批判の文脈」の中で次々に出現してくるのではないかと思えるのです。
 こうした志向を共有する人々も綿々と続いて存在し、それゆえそこに詐欺的な商売や怪しげな宗教的集団の付け入る隙が出てくる、いえむしろそれを飯のタネにしようとする人も無くならないという感じがあるのではないかと。


 それを「欠落」だと認識すれば、いくら啓蒙してもいなくならないと嘆くより仕方がないことかもしれません。でもおそらくそれは欠落ではなく(他のものの)過剰なのです。こうした志向を認識することで、もっと落ち着いた対処があり得るんじゃないかなと愚考します。今の福岡氏の本が売れるのも、ある種のオルタナティブな健康論・食事論・運動論などなどが出てくるのも、こうした系譜の上に乗ったことだと達観するぐらいが良い加減だろうと思うのでした。

*1:もちろんトリックに引っかかったことを叩く人たちも大勢いましたが

*2:絶えず生起しながら軌跡を描いて連続する意識の流れを「純粋持続」と名付ける哲学