恵まれたとか何とか
■恵まれた家庭に生まれただけで(増田)
恵まれてない側を理解できないほどの乖離が生まれるんだよね。
実際、自分がそうだもん。リアルに接したことないですわ。追い込まれてワープア生活なんて。
いや、フリーター生活する前に、十代のうちに勉強して大学行くし
就活こなしたらどこか引っかかるだろっていう・・・。
大学行けねーとか、就職できねーって異次元の話みたいだ。
そこそこの大学行くのが普通って環境に生まれただけですごい得なんだなー。
さらっと言っているのですが、いろいろ思うところが出てきます。
ブックマークでは
恵まれ方だっていろいろ。恵まれない状況だって人による。びんぼしてても明るく生きる人も、 お金持ちの不幸な人も。この言い方が通るなら、ほとんど誰のことも理解できないだろうね。
とコメントしましたが。
まず元増田さんが言う「理解」って何だろうと思います。
経験しなければわからないっていう前提なら、多くの人は「追い込まれてワープア生活」してないのでそれを理解できないということになるでしょう。また「リアルに接」したことがあるかどうかというのは生活圏の中や知人にいるかという話でしょうが、これまた身近に居れば理解できる(できるはず)と思っているのかどうか不明です。
少なくともこの人は、自分には理解できないだろう形で「恵まれていない側」というのがあるだろうということは言っているようなので、私はそれも一つの理解でいいんじゃないかと思うほうです。
むしろそれは、自分が恵まれていなかったから他の恵まれていない人をみんな理解できると思い込んだり、自分の身近に恵まれていない人がいるからそこらへんはもうわかったと思い込んでいる人よりも「性質(たち)」はいいだろうと感じます。
むか〜しの「オルグ」とかいう感じの語りに、よくこの類の話がでてきたなあと思い出しました。「理解」しているのかと問い、理解しているつもりと答えれば「何か自分の実践があるか」と問い。活動に結びついていないのは「理解できていない」ことだと断じ。結局「理解できていないだろう」と突きつけるためだけの結論ありきの議論というのがありました。案外素直な子はそれで参ってしまうという、ほとんどカルトの勧誘と同じような手管です。恵まれているということがいつの間にかそこでは「引け目」に転換されているんですよね。
理解することも、何かをしなければと思うことも、何かをすることも、全部自分でできるなら誰にも文句はつけられないと思います。元増田さんがここで「だから何かしよう」と思ったり「違うんだな〜」で取りあえずストップしたり、どういうことをされても本来それでいいことだと私は考えます。
ただ自分はそこに「理解できないほどの乖離」があるとは感じられません。大学行くのが普通って環境にいたことは確かですが、それを理由に恵まれていない人を全く理解できないものだとは全然思えないのです。そこらへんがちょっと引っかかって何か書きたくなったわけですが。
体験したってわからないことはわからないでしょうし、ここまではっきり想像できない、理解できないっていう認識が持てるなら、それはもう「無知の知」につながるほどのものなんじゃないですか? それは案外「恵まれた側」で育ったから持てた認識なのかも。