「ラブプラス」話で反射的に

 ⇒「ラブプラス」に感じるごく私的な違和感(G.A.W)
 いくつかの記事でしか「ラブプラス」というゲームは知りませんが、このエントリでnakamurabashiさんは相当な怖さと言いますか危惧を、それに対して感じているように私には受け取られました。
 またその漠然とした危うさというものを、生に、直接に誰かに忠告するというようなスタイルは慎重に避けて、あえて一般化した(あるいは個人的経験の線上といった)形で言わずにはいられなかったのかなあとも。


 ここに書かれた言葉で、

 だけどこれは新しいものだ。それだけは確実だと思う。

 とありましたが、私が思い出していたのはむしろずっと昔の本、眉村卓『わがセクソイド』(角川文庫、1974)*1です。どうやらもう絶版になっているようですが、自分は中高生の頃に読みました。


 これは、一人の「落伍者」と彼をライバル視する「友人」、そしてセックス専用に精巧に作られたロボット−セクソイドの物語です。
 この「友人」がいささか歪んでいまして、とても優秀だったライバルが勝手に社会から墜ちていくのは許せないと、陰に陽に助力を与えながらそれでもあと一歩のところで自分の方が上に立つという関係をひたすら望むという変な男でした。彼がこの物語の"現実"担当ですね。
 ところが「落伍者」はその誘い(ある意味罠)に乗らず、とある店で知り合ったセクソイドにひたすら慰謝を求めて行きます。そしていつしか彼女に人格を認めていくという具合でした。このセクソイドが夢といいますか"虚構"担当です。
 この"現実"と"虚構"の狭間で、「落伍者」の彼はためらうことなく"虚構"に嵌っていきます。
 しかもこれはピグマリオンコンプレックス的なものではなく、また肉体的欲望に引きずられたものでもなく、まさに当時の私にとっても"恋愛"と受け取れるようなものでした。でも当然それはある意味現実逃避であり将来があるものにも見えない、そういうものでもありました。最初から幸せな未来があろうはずも無い、そんな絶望的なお話です。
 「友人」はいくら働きかけても這い上がって来ようとしない「落伍者」に焦れ、彼が一体のセクソイドに嵌っていることを嗅ぎつけます。そして彼に言うのです。「そのセクソイドはもうじき"調整"される。"調整"が終わったらお前のことは記憶に残っていないし、人格も改変されるだろう」と。
 「友人」はこの言葉で「落伍者」が「現実」に目覚め、自分との世俗の競争に戻ってくるだろうと思ったのですが、実際にはそうは行きませんでした。
 もともと優秀な男であった「落伍者」は、綿密な計画を立て調整先に送られる寸前のそのセクソイドを奪取。"彼女"とともに、先の見えない絶望的な逃避行に走るのです。もちろん終着にあるのは悲劇でしかないのですが…。


 眉村さん独特のロマンチシズムに彩られた作品でした。読んでいる者は、その逃避行の中「落伍者」が得たものが刹那的にもきらめいて感じられる瞬間を持ったでしょう。そして与えられているはずのない「人格」を確かにそのセクソイドが持っているとも。
 さて、本当に幸福だったのはどちらか、などと感傷的に言っても仕方がないことです。それはある意味言うまでもないこと。ただし、そういう「逃避」の中にも"真実"はあり得るのではないかと思わせてくれる作品だったのは確かです。


 現実というのは各人にとっての世界の把握の仕方だと思えます。むしろ漏れなく万人に同じ現実はあり得ないのではないかとも。この作品ではある種の狂気も一つの現実だ、といったことが語られていたのかもしれません。
 もちろん人とあまりにずれた"現実"は、生き続けるという方向からは全く逆向きのものでしかありません。でもそこには他に何も無いのか、という問いには、いまだに「わからない」としか言えないのでした。

*1:初出は1969年