コミュニケーションコスト

 昨日帰宅してシャワーを浴びて髪を乾かしている頃合いに玄関のチャイムが鳴りました。
 インターホンの調子が夏の初め頃から悪く時々聞こえなかったりしたのですが、不幸にもこの時もそういった状態で、雑音の中から何か声がしているような感じだけで一言も聞き取れません。
 「ちょっとお待ちください」
 と声を掛け、急いで身繕いをし(というか服を着て)、町内会費のあれかなと財布を捜してポケットに入れ、何だかんだ気が急く思いで数分して玄関から出てみると、某宗教関係のおばさんが二人、日傘を差して「今日であった方々にこれを配布しています…」とかいっているのです。


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 思わずむっとしながらも言葉を選んで、受け取るだけ受け取ってお帰りいただいた後でちょっと一考。
 こういうのが異文化コミュニケーションのコストっていうもんじゃないかって。


 何も国際関係のご高説を開陳するとか、上から目線で慈愛の寛容のと手を差し伸べるとかじゃなくて、とにかくこういう時に怒ったり拒絶するのをちょっと控える、話しかけたり訪れた人への手間を惜しまないということが第一歩なんだろうなと思えたのでした。
 相手のことをわかったつもりにならずに(悪意の誤解も善意の誤解も一緒です)、まあ取りあえず相手をしてみようやという態度。相手に「察しと思い遣り」を(無意識にも)要求せず、とにかく玄関に出てみるという態度こそが「異文化コミュニケーション」とかいうものの基本なんだろうと、唐突にそう感じました。


 小さい頃東日本で育ち「値切りの文化」というのにはいまだになかなか慣れません。あれもコミュニケーション、とは関西の友人によく言われましたが、どうにもそういう交渉事には冷や汗をかいてばかり。
 お互いに自分のポジションで言いたいように言って、それで駄目ならまあしゃーないと後腐れ無く別れる。これは本当に異文化コミュニケーションには非常に適した態度でしょう。
 どうしても自分で「相手を察して」しまい、自制して、そして同時に自分が自制した分を(暗黙裏に)相手に要求してしまう…。これは考えてみると異文化との接触には非常に向かないですね。でも実はそれが通れば「快適」だったりするのですが。


 とにかく苛立ちや怒りを見せなくて良かったと、後で思えました。
 インターホンを直しておかなければと思うのですが、この便利な機器は下手をするとコミュニケーションの拒絶に実にうまく働いてしまいそうで、でも不用心とかいろいろ頭をよぎってしまい、まあどうするかはぼちぼち決めようと考えるのでした。
 本当に「こちらを察してくれない」他者とコミュニケーションをするというのは難しいものだと思えます…