穢れ

 うどんの食べ方で私が密かに「お嬢様食べ」と呼んでいるものがあります。それはうどんを一本ずつ箸で取り、ずずずっと一本の終わりまで啜りこむ食べ方(笑)
 おちょぼ口で、どうやっても早くは食べられないやり方でありまして、何人かそういう人を見てきたのですが、何か「お上品ぶって」やってるんじゃあ…という偏見ももっていました。それらしい女の子ばっかりだったですし。


 ところがある時それは間違いだと、偏見だと言ってきた子がおりまして、よくよく聞いてみると彼女的には「口で噛み切ったうどんがつゆの中に戻るのはきたならしい…」という感覚でお嬢様食べをしているんだと言うのです。
 でもそれじゃあ潔癖すぎるんじゃないかと思ったわけです。そばは一気啜りでも良いとして、ラーメン類は?スパゲティなど他の麺類は?それに自分で口をつけたのが(出汁に戻って)穢く思えるくらいなら、他のいろんな食事の場面で困るんじゃないかと。
 その人は、ラーメンでは気にならないとか、やっぱり採り箸がないと気になってたまらないとかいろいろ言っていましたが、結局そういう穢れ感覚は人それぞれなんだなということにつきるのかもしれません。それでなんとなく納得しています。(実際このお嬢様食べをラーメンでしている人も目撃しました)


 きれい−きたないの対立軸は相当人の行動に影響するものですが、案外ふとしたところでユニークな個人性を見せ、集団(社会)の中で浮いたもりするものなんでしょう。ちょっといや、とかいう程度の感覚であれば見過ごせますが、絶対生理的に受け付けないという「穢れ」感覚で合わずに彼氏(彼女)と別れたなんていう話も普通にありますね。


 さて穢れ(ケガレ)は*1、基本的にはこの民族社会において「生と対立する死へのイメージを呼び起こすもの」としてあると思います。穢れはこの世の中において(繰り返し)生産され続けるものであり、「不潔・危険・強力・感染性」などの特質を持って何らかの形で祓へ遣る(ハラヘヤル)必要があるものとして存在すると。確か鳥インフルエンザのことをネタにそんなことを書いたこともあったはず。


 この頃思うのは、放射線の「穢れ」をどこまで怖がるかということへのまとまらなさと言いますか、極端に怖がる人がいるわりに、ずぶとく構える人(含自分)も結構いるなあということです。これは必ずしも放射線に対する知識の多寡によって分けられるものでもなさそうな…
 でも自分から見れば放射線放射性物質)に怯えすぎる、そこに死のイメージを過剰に捉えすぎるのは何だかなあという感じもあります。それは原水爆などとの重ね合わせから来ているんじゃないかと、密かにそう見えます。逆から見ればこちらの方が鈍感で阿呆ということにもなるのかもしれませんが、一応ここは落ち着け、大丈夫だと言っている専門家諸氏の話を信じたいんですけどね。
 

追記

 なんで自分の中で放射線の死のイメージが比較的小さいのか考えていて、今ちょっと気づいたのですが、最先端医療と言われるものには放射線の利用がほとんど不可欠…っていう認識があったからじゃないかと思えてきました。死のイメージと同時に生のイメージも自分の中では共存していて、一方的には見られないといいますか。つまりは諸刃の剣みたいなイメージ…

*1:最古層を考えれば「気枯れ」につながるものでしょうが