日航機墜落から20年 手記に見る死生観

 あれからもう20年ですか…


 今朝の「めざましテレビ」でも言及がありましたが、日航ジャンボ機墜落事故のご遺族の手記をまとめた『茜雲』という本が先月出版されております。これはご遺族のうち半数以上のご家族で組織された「八・一二連絡会」が編集なさったもので、ご遺族の悲痛な気持ちが胸をつまらせる本です。
 8・12連絡会編『茜雲−総集編』本の泉社 ; ISBN: 4880239151


 さて、ここに載せられたご遺族の手記から、日本人の遺体観念を知る手がかりを探そうとした人類学の人がいます。波平恵美子さんです。私は以前にそれが書かれている彼女の『脳死・臓器移植・がん告知 死と医療の人類学』、福武文庫1990、を読んでおりまして、それを毎年身近な学生に紹介しておりました。
 亡くなられた方のご冥福を祈り、ご遺族に哀悼の意を捧げるとともに今日はその波平氏の考察の紹介をいたしたいと思います。


 波平氏が挙げる、航空機事故の際に人びとがとる行動が「日本人の遺体について抱いている観念を知るうえで重要な手がかりになる」と考える理由は次のようなものです。

(1) 複数の人がまったく同じ原因によって死亡していること。
(2) 死亡者の年齢、性、職業、家族的背景、出身地がそれぞれに異なること。
(3) 死があまりに突然で劇的であるために、人びとが死や遺体というものについて抱いている観念がより直接的に示されていると推測できること。つまり、航空機事故による死亡は、非常に特殊な形での死の発生であるが、そういう特異な状況では、社会全体に一定の傾向があれば、それが強調される可能性が高いと考えられること。


 波平氏は初期の編集の『茜雲』をもとに作られた文集『おすたかれくいえむ』を元に考察なさっていますが、彼女はこの文集についてこう語ります。

 まずなによりも印象的なことは、遺族がなんとしても肉親の遺体を確認しようとするその努力である。惨状のなかで、肉親の遺体のわずかな部分さえも、山上の土の中から、あるいは酷暑の、腐臭に満ちた遺体置場の体育館のなかで捜し求めた遺族の遺体への執着の強さに驚かされる。なぜそれほどまでして遺体を確認しようとするのか、ほとんどの遺族の行動をそのように動機づけたものは何であったかと改めて考えさせられる。


 遺族の人びとの遺体についての観念を示していると考えられる文章を(お名前などは隠させていただいた上で)ほんの少し引かせていただきます

 人は死んでしまうと、身体は土になる等自然に帰りますが、魂は不滅です。かならずお父さんの魂が、皆の成長ぶり、生活ぶりをみています。

 これは40代のお兄様を亡くされた方の、お兄様の家族へ呼びかける手記の部分です。

 私のそばから、身内の八人が一度に天国へ行ってしまった。みんな今どうしているかしら、きれいな山々の紅葉もいつの間にかはや二度目の寒い冬、可愛いあんたたちをそんな寒い山に住まわせて、ごめんね。(後略)

 これは娘さん夫婦を二組亡くされた方の手記の冒頭です。

 遺体がみつかりました。焼けた123便座席××Kと書いてある『チビッ子VIP』のワッペンと、小さなイボのある右手だけ。顔も左手も足もありませんでした。でも『やっと会えた。ママは○といつも一緒だよ。もう一人にはさせないよ』と心の中で叫んでいました。
……葬儀の後、部分遺体を見つけるために、何度、群馬を往復したことでしょう。あの子の一部なら、どんな形でも連れて帰りたい、と思いました。
……変わり果てた足と手の、わずかな部分。
『でもこれで、天国で大好きだった野球ができるね』……。四十九日忌には五十本近いジュースの一つ一つに手紙を貼って(クラス中の子供達が)届けてくれました。『○ちゃん、野球をしてのどがかわいたら、天国で飲んでね』という文面の書かれた箱いっぱいのジュースを手にしたとき、亡き子を抱きしめたようでした。

 9歳の息子さんを亡くされたお母様の手記から抜粋しました。

 生活の中心であった息子は、どこへ行ったのかとそればかり考えています。仏壇の前に坐っては、よく息子に云います。『いつまでも、そんなせまい所に居ないで、俺と場所を代わろうや』でもいつまでたっても代わってやることが出来ません。……親のつとめとして、いまでも何とかして、結婚式を挙げてやりたいと思って、どうすれば息子もよろこんでくれるだろうと、そんなことばかり考えてしまいます。どなたと結婚することになっていたかはわかりませんが、せめて、まねごとでもしてやりたい。でも無理な、かなわない愛とあきらめろと自分にいいきかせています。でも、やはりなんとかとすぐ思ってしまいます。

 これは二十歳過ぎの息子さんを亡くされたお父様の手記です。次の二つの例もまた同じく息子さんに逝かれたお父様のものです。

 事故現場に駆けつけた私と二男は、この世のものとは思えない地獄を約十時間もはいまわり、『お父さん、弟よ、ここだここだ』という無言の叫びに導かれ、八月十七日やっとの思いで遺体を確認した。……悲しみと無念、代わってやれるなら代わりたい!死んでやりたい死んでしまいたい!……の思いは今も消えない。

 軽い軽い骨つぼが、長年住みなれたわが家に帰る。少年時代から寝ねなれた彼のベッドに、まるで幼児を寝かせるように、静かに置いた。○○よ、さあ自分の家だよ、自分のベッドだよ、安らかに眠ってくれ。


 以上のような読み進むのがつらくなるような悲しい手記から、波平氏が整理抽出した「日本人の死生観や遺体観、あるいは残された遺族の亡くなった人への思い」は次のようなものでした。

  1. 人が死んだあとも、その人の霊魂は存在していて、「あの世」、「向こう側」、「天国」などと表現される生きている人間が住む世界とは異なる所に存在している。
  2. 死者の霊魂は、しかし、たいへん具体的な現実性を帯びた状況のもとにある。霊魂は形のないものではなく、生前と同じように身体をもち、食べたり飲んだり、笑ったり怒ったりする。また暑さや寒さや快適かそうでないかといった、生きた人間が感じるような感覚をもっている。
  3. 生き残った家族や肉親あるいは生前に死者と親しかった者は、死んだ者が置かれているかも知れない不快な状況や欠乏や不満足の状況を取り除いてやり、また悔しさや無念さ、怒りの感情を取り除いて、できるだけ幸福で安らかな状態に死者を置いてやる義務がある。
  4. 遺族や親しい者にその遺体が確認されて初めて、死者の霊魂なり死者そのものの存在が、遺族にとって現実に存在することになる。その飛行機に乗っていたことが確実であり、また死亡したことが確実であるにもかかわらず、遺族にとって遺体が確認されない限りは、死は起こったことにならないし、死者としての肉親は存在しないことになる。つまり、生きた人として家族や親しい者の所へ帰って来るわけでもなく、いわば「行方不明」のままである。このような認識があるため、遺族は、遺体が確認されると死が確実に起こったことを認めることになるのにもかかわらず、遺体がみつかると「うれしい」と感じる。
  5. 死者は血縁者や家族に自分の遺体をみつけてくれることを強く望んでいる。
  6. 死者は親しい者が自分が死んだその場所へ来て欲しいと強く望んでいる。また、遺族や親しい者は死の現場へ行って初めて死者の魂を慰めることができると信じている。
  7. 遺体となった死者は、自分が死ぬまで住んでいた家へ帰りたいと願っているし、遺族はそのようにする義務があると考えている。
  8. 遺体は家に持ち帰り、それぞれの方法で死者儀礼をやってはいても、その霊魂は全部とはいわないまでも、部分的には死が起こった場所に残っていると考え、遺族や親しい者がその場所を訪れることを望んでいると信じている。
  9. 遺体は「五体満足」でなければならない。もしバラバラであっても、できるだけ部分が多く、元の身体の形に近いほどよい。身体の部分が欠けていると、あの世での生活が不自由であるかもしれない。また、死者は自分の身体が元の形をしていないことを不幸に思うし、そのような傷つけたり欠けたりした部分があるような原因を作った者を恨むと信じている。


 そして波平氏は、

 航空機事故をめぐって観察できる日本人の遺族の行動は、実は日本民俗学が伝統的な行動様式や慣習について記したもののうち、異常死をめぐって行われる死者儀礼、遺体の取り扱いの記録に見出されるものとたいへんよく似ている

 と語り、民俗学が記した習俗や制度は明治から現在に至るまで大きく変わったものの、死という重大なできごとをめぐっては、人びとの観念がそれほど変化していないことを明らかにしてくれる、と結論づけるのです。


 ご遺族の文集『茜雲』は、もし本屋さんなどで見かけることがありましたら、手にとって中を覗くなどしていただければと思います。この大事故を記憶に刻むのも、一つの追悼の形だと思いますので…

SAMURAI7を観る3

 またまた一日分遅れていますが、とりあえず十五話からの感想です。


 十五話はいくつか伏線を張っていますね。一つは十四話あたりで悪い予感があったものですが、キララがカンベエに惚れているということ。また、その後のオリジナルな展開でリキチの女房を取り戻すためにミヤコへ行くという話があるだろうこと、こんなところでしょうか?
 だからカンベエをああいう「美形」にしてはいけなかったのです(個人的感想)。彼はもともと生き方がカッコイイ男なのです。そしてそれに惚れたのか顔に惚れたのかはっきりわからないことになってしまうと、カンベエの魅力がきちんと伝わらないですよ。これはキャラ設定に問題ありと感じました。


 十六話の雨中の戦いは、はっきり原作の方が面白いし迫力があります(原作ではクライマックスですし)。まずアニメは集団戦が描けてなかったと思います。原作の野武士と百姓に比べて、アニメのノブセリと農民の実力の差がありすぎの設定でしたので、農民たちが力をあわせれば(たとえば5人で1人にかかれば)ノブセリをなんとか倒せるんじゃないか、という期待感がほとんどありません。だからサムライだけが、各々のとんでもない実力でノブセリを(ちょうど時代劇のラストでばったばったなぎ倒すがごとく)個々に倒していくだけ。これではせっかく村を城にして農民たちも戦うという意味がありません。原作の、延々と続く泥中の攻防を息を詰めて見つめてしまう感じが出ていなかったですね。これは作画云々というより設定の問題でしょう。また七人の力量もあまりにノブセリの雑魚キャラを凌駕しすぎていて、緊迫感に欠けます。これではせっかく「予備の刀を何本も地面に突き立てて備えていた」意味が生きてきません。こうなると、個々のサムライのカッコイイ勝ち方も裏目としか見えなくなりますし、サムライ仲間の怪我や死もたまたま偶然のものとしか受けとれなくなってしまっています。
 そして、原作でこの戦いを緊迫感あるものにしていた「敵の数の予想と、一人一人倒していく集計」がほとんど生きていません。アニメでは最初から何か敵方の数が圧倒的で、数などわからなかったですし、一旦谷底に追い落としてからの敵の数も印象付けられていません。確かに正の字を書いているシーンはありましたが、たとえばあそこで「ミミズクはおそらくあと十五名」みたいに言った直後に、二十三、四人のミミズクが現れるようでは何のためのカウントダウンかわからないです。これが生きなかっただけでも、原作に到底及ばないものでした。
 しかも見終わった後に、カンベエの智謀やヘイハチの工夫やシチローザの手際などが印象に残りません。これはとても残念…


 十七話は回想と新展開のプロローグですか。稲刈りは原作ではエピローグでしたが…。キララは本当にカツシロウに脈なしですね。済まないとか可哀そうとか思われて、しかも他の男に心を奪われている女性が近くにいる状況は本当に気の毒としか思えません。私は実は十四話で、カンベエがキララにカツシロウに抱かれるように因果を含めたものだと思っていました(汗)それはもうあり得ないのでしょうね。間違ってました。さてここからのオリジナル展開はどうなるのでしょう。ここまで見てきて期待半分、不安半分というところでした。


 そしてその後の二話を見た時点で、不安的中、期待増大というところでしょうか。カンベエのミヤコ(なんと浮遊要塞風の天守閣、元のダイホンエイでした)への潜入がプロフェッショナルらしくないのには失望しました。あれはほとんど運を天に任せるやり方で、智慧を使うというより身体を使うアクションヒーローのやり方です。どうにもイメージが崩れます。
 むしろここで期待ができそうになってきたのがウキョウですね。アマヌシ(天主?テンノーではなかったですね)と絡んでいく彼は、立派なプロフェッショナルだったと思います。こういうキャラがいれば、ここからの物語も飽きずにすみそう…とはいえ最終的にはアンチ・ヒーローというより「サムライへの恨みを持つ可哀そうな人」ぐらいの結末になるのでしょうか?
 また、リキチの元女房サナエの言動にもとても興味がわきますね。複雑な女心というところでしょうか。でもここへきて個人的には青臭いキララの方はどうでもよくなってしまいました…残念です。