昨日の日記にいただいたトラックバックの、yas-toroさんの記事

 でも、「なぜ続けるか」というと、やはり「書きたい」という事が根本にあるからだと思う。そして「対話したい」。一度凄い反応があってその後反応が薄くなったとしたら、寂しいと同時に「またそんな反応があると良いな」と思いながら書いていく。狙って書ける人は書くだろうし、書けない人(私とか)は、今まで通りに淡々と書いていく。


 その先で、またそういう反応がある事もあるだろうし、読者になってくれて、良い文章を書けた時に反応をしてくれる人も出てくるかもしれない。そうなると凄く嬉しい。だから続けていける……かな。

 とありましたのは、なるほどと思います。ただこればかりは自分でも気分によっていろいろですし…
 このトラックバックも含め、コメントなどいくつかいただけたのはとても嬉しかったです。

自他の分節化

 おそらく、差別的思考の萌芽は人間の思考にある分節化(分類と言ってもいいですが)の能力にこそ存在すると思っております。そしてその分節化自体を否定することは、人間の思考の形そのものを否定することにつながるだけなのではないかと…。


 社会的動物としての人間は「自分」と「他者」という分節化を果たした時点で、「われわれ」がいて「彼ら」がいるというところまで進まざるを得ないと考えています。この「われわれ」は様々に意味内容を変えますが、基本的には「彼ら」という外部の存在があるからできる、そういう「内部」です。


 この内側と外側の組み合わせが「差別」あるいは「争い」をもたらすものであると考えるのは正鵠を射ているでしょうが、だからといって短絡的に「われわれ」という概念を無くす方向へ行けばよい、それは可能だと考えるほどの楽観主義には私は与しません。


 これが「啓蒙」によって何とかなる問題ならば、人間の歴史から「争い」が無くなるという理想状態を夢見ることもできましょう。でも私にはどうしてもそこまで考えることはできません。むしろ単純にそこに基盤を置いて論を立てる方々に、なぜそういう楽観論が語れるのか聞きたいぐらいです。私を説得して欲しいとすら思います(もちろん私が散々に抵抗して、それを打ち破るような説得なのですが 笑)。


 人間は全知の存在にはなりません。それゆえ他者(異者としてもよいのですが)に対する根源的恐怖から逃れられるだろうとは思えません。
 そうですね、新たな外部、地球外生命体でも来てくれた時には、あるいは限定的にでも「地球市民」のようなものができるかもしれないとは思いますが、それは単に「異者」を別の範囲に振り向けたということでしかないのでしょう。


 私は人間の認識に悲観的ではありますが、同時に一人一人の共感や理解について絶望はしておりません。それゆえ、ア・プリオリな理想状態には賛同できないものの、自分が生きる一瞬一瞬は他者理解において閉ざしてはおりませんから自分なりに生きていけるのだと思っております。

駒大苫小牧選抜辞退

 野球部の監督、部長、それに校長も辞任の上、選抜高校野球の出場を辞退する(ニュース:駒苫辞退、消えたセンバツV本命)とのことですが、これに関して元の事件である「卒業式を終えた高校生たちによる宴会(飲酒・喫煙)」について賛否が様々書かれています。これについて私は二つの見方を持ちます。

自分が犯していない罪に対する責任

 連帯責任というものは常に不条理です。自分が避けることのできなかった問題について、責任を取らされる人が出てくるからです。私はある種古典的な自由意志に基づく責任論「その行為をしない可能性、予見の可能性があり、回避できた可能性がある場合にのみ責任が成り立つ」というものに拘っていますので、飲酒・喫煙などを行わなかった下級生が出場機会を奪われるのには賛成できません。


 その不条理込みで「内輪なんだから・仲間なんだから」と責任をとるのは、厳格責任(とか代位責任)論で説明がつくものでは決してなく、それは「内輪の論理」なんだと思います。近代的個人と言いますか主体というものよりも、内輪の論理を教えるというところはさすがに日本的な伝統校なのかなとちょっと皮肉に思いました。


 先の大戦で日本が犯した行為に、戦後に生れた私たちの責任もあるんだとおっしゃる方々がいらっしゃいますが、そういう方もこの高校と同じくとても「日本的」な内輪の論理に捉えられているのではないでしょうか。それを選択するかどうかは、正しい正しくないの問題ではなく、個人の選択・判断に依るのは申すまでもないことに思われるのですが…

高校生が飲んだって…

 というようなことは、自分が子供の立場だったら言いかねないことでもありますが、これには賛成できません。子供の自主性・判断に任せようというなら、言い方を換えれば「自主性」を持った責任を取れる人格として認められるなら、彼らを「大人」とみなすべきです。成人年齢を下げ、義務・責任とともに権利を与えればよいのです。子供として保護するのをやめないならば(たとえば彼らは少年法によって裁かれる立場なのですが)判断主体として全き大人と同じに考えることはできません。

 自由主義の原則は、自己決定の権利をもつ大人と、その権利をもたない子供の厳格な権利上の区別を前提にしている。「自己決定の権利」という言葉は、フェミニズムの支持者にいたく愛されているが、それを子供に認めるなら自由主義は成り立たないということを彼らは知らない。そして進歩的ジャーナリストも知らない。
加藤尚武『応用倫理学のすすめ』丸善ライブラリー)

未成年者飲酒禁止法と根本正

 未成年者飲酒禁止法未成年者喫煙禁止法には、茨城県那珂町(今は合併して那珂市)出身の衆議院議員根本正氏が大きく関わっているようです(参考:未成年の禁酒・禁煙法の父 根本正のホームページ)。


 その伝記をかいつまんで紹介いたします。

 嘉永四(1851)年庄屋の次男として生れた正は、万延元年(1860)年9歳の時、近隣の神主の私塾に通い始め、13歳で水戸学の彰考館の総裁の家である豊田家に下僕として住み込みます。
 そして明治4(1872)年、二十歳になった正は職と故郷を捨て東京へ家出するのです。
 東京で正は適塾出身の箕作秋坪や同人社(開設直前の)中村正直らの教えを乞い、車夫をしながら塾に住み込み塾僕として苦学しますが(彼の目的は英語の習得)、明治9年神戸にアメリカン・ボードの宣教師ギューリック(Luther Halsey Gulick)を訪ね、翌年は横浜に戻りヘボン塾のジョン・クレイグ・バラー宣教師に師事して学びます。


 明治11(1878)年横浜住吉町教会(横浜指路教会)にて洗礼を受けキリスト教に入信した正は、翌年の春、キリスト教団体の支援をうけつつ、北京号(シティオブペキン)という貨物船に乗り込み横浜を発ち、カリフォルニア州サンフランシスコ郊外のオークランド市に行くことになります。
 そこで地元の家に召使として住み込んで家の掃除や馬の世話などを始めますが、自分が日本で学んだ英語が通じないということに衝撃を受け、28歳のときアメリカの小学校に入学して再び学び直そうとするのでした。
 30歳となって正は市立ホプキンス中学校へと進学、そこを4年で終えさらにホプキンス高校を出た後、住み込み先のバーストウ氏の紹介で大富豪である鉄道王フレデリック・ビリングス氏の援助を得て、バーモント大学に入学がかないます。(オークランドを離れるとき、サンフランシスコメソジスト福音会が母体となり、正のために盛大な壮行会が行われたそうです)


 西海岸から東海岸へと移った正は、バーモント州のビリングス氏を訪ね、ビリングス一家の信頼と支援を受けつつバーモント大学も卒業。氏の「Be a useful man in Japan!」の言葉を胸に帰朝することにしたのでした。(その後、ビリングス氏の恩に因んで正は最初の息子に美倫と名づけますが、残念ながら美倫君は早世します)


 明治23年帰朝した正は38才で結婚、外務省雇いとなって板垣退助を助けつつ政治家を目指すことになりますが、茨城二区から第一回総選挙に出馬して落選。その後も金もコネも薄い彼は落選を続け、ようやく第五回総選挙で初当選し、その後は10期27年に渡って連続当選します。


 彼が政治家として関わった政策は

 さらに地元に関するものでは

 に尽力しました。


 そして明治34年(1901年)2月9日、未成年の飲酒を禁ずる法案を初めて提出します。ところがこれは何度も何度も否決され、彼の孤軍奮闘が続くのです。

 それなら子供が便所に行くのも危ないから法律を作らねばなるまい。あるいは衣服を着せる方法に付いての法律もつくれというのか。(花井卓蔵代議士)


 かくのごとき愚劣なる案を委員会その他に付して、時日を長引かせると云うことは、国務の渋滞を来し、私は見逃すことができないと思う。根本君の殆ど十数年にわたりまして熱誠なる御趣意は分りましたが、その趣旨たるやほとんど道徳と法律とを混淆して、なにがなんだかワケがわからんような問題だと私は考えます。(伊東知也代議士)


 国は酒を飲んだ時代の方が強い、さらに、私の友人伊東君は酒を飲んでいるけれど、明瞭に演説の趣旨は分った。しかし、酒をのまない根本君の演説はよく要領がわからん。
 根本代議士が年々歳々熱心なるご提案をなさるということについては、つつしんで敬意を評しておきます。しかしなら承れば根本代議士その人は宗教家のなかでも耶蘇をお信じなさる。この禁酒というようなことは宗教もしくは道徳の力をもって人々みずから戒めるということが本体だろうと思う。(佐々木安五郎代議士)


 根本君が長いこと提出し続けているからその熱心さゆえに人情論をもって通過させるわけにはいかない。
 酒を飲んで何がわるい、効能顕著な酒をなんで未成年者に飲ませてはならんか。
 飲まない親父がいるか、冠婚葬祭はどうする、結婚式の三三九度の杯を水杯でやるのか。
 13、4歳でのむものはいない。たいてい飲むのは15、6、7である。酒を飲んでへなへなしているやつは、一朝事有ったときに役に立つものか。(中野寅吉)

 そして大正10年、第45議会において根本議員が提出し続けた「未成年者飲酒禁止法」はようやく成立します。足掛け21年間かけた執念の結果でした。


 こんな具合で、今現在「未成年者飲酒禁止法」が定められているということなのです(詳しくは上記伝記をお読みください)。なお同法ではお酒を飲んだ未成年者には罰則はなく、飲ませた側(親権者や販売店側)に罰則、50万円以下の罰金刑が適用されることになっています。


 昔、教科書問題で調べていたときこの根本氏の伝記を見つけ、いつか書こうと思ってはおりました。その発想にプロテスタント的な禁欲主義は大いに関わるとは思いますが、酒で若いうちに身を持ち崩す者をできるだけ少なくしようと考えた彼は、やはり当時の愛国者であったろうと思います。