まなびストレートは学園ユートピアだから、だからパラダイス・ロストの物語だということ

■なぜ「まなびストレート」はハルヒになれなかったのか?

このアニメが明らかに「涼宮ハルヒの憂鬱」の大ヒットを意識して作られたのはもう言うまでもないが…

 こういう書き出しで「まなびストレート!」を語る人がでるとは思いもよりませんでした。あまりに「ハルヒ」と「まなび」は異質な物語に見えるので、どうしてこの方がそれを並べて自明という感じで語ろうとするのか真剣に??? 京アニufotableは全然違うものを目指しているのです。


 「まなびストレート!」は女子高の女子だけのお話です。これは「性」を意識せずに過ごせた一種夢物語の学園生活と、その楽園からの出発のお話なのです。ちょっとあざとい「見えそで見えない演出」は頻出したものの(笑)、どこにも性の悩み、恋の悩み、それどころか異性の気になる人の影すら見せず、出てきた異性はお兄ちゃんや相当歳が離れた先生だけ。これがどうしてハルヒキョンの関わりを中心とするあの作品と比べられるというのでしょう?


 その架空性はむしろ「ハルヒ」より「まなび」に顕著です。SF仕立ての設定があろうがなかろうが、こういう性を意識せずに過ごせる(つまりは子供として完結できる)学園生活などもはや望むべくもないのですから。身近なものとして「まなび」の方がリアルではないのです。
 少しも異性との絡みを描かない「まなび」に、何か不自然なものを感じた方もおられたのではないかと感じます。でもちょっと前(と私には思えますが20年、30年前)に学生生活を中学や高校で過ごした者には、ある意味ホモ・ソーシャルなああいう学園生活が一つの理想形としてあることは直観できると思います。
 無邪気に、性に足を取られず、打算のない友人関係だけで過ごせる学園生活。もちろん20年やそこら前にそういう理想が実現していたということではありません。でもあれを「いいなあ」と思える程度には、かつての若者はすれていなかったんですよ。(この意味で「まなび」の話は、線対称にひっくり返して男子校の男子の話としても成り立つものだったと感じます)


 「まなび」に比べれば「ハルヒ」は相当「性」に足を取られています。気になる男の子の態度によって世界が滅びの危機を迎えるなんて(そして「キス」でそれが回避できるなんて)、よっぽどそちらの方が「リアル」でしょう、今の学生さんには。


 「まなび」のキャラがあれほどあどけなく高校生に見えないほどだったのは、それが「真性オタク専用の絵」だったからではなく、私には性の未分化な少女に見せるためどうしてもそれが必要だったと思えるのです。
 この作品は「子供」が「子供」でいられるユートピア(どこにもあり得ない場所)として学園生活が描かれたそういう作品だったのです。


 しかしユートピアはいつか終わりを迎えねばなりません。だってそれはあり得ない場所だからです。その終末は失楽園=パラダイス・ロストとして描かれねばならないのです。それが12話です。

 もっとみんなといたいよ〜(涙)


 私、私やっぱりアメリカに行くのやめ…

 ミカンがこういう弱音を吐くのは、楽園を失おうとしている(現実に巣立たなければならない)人間として当然の気持ちでしょう。
 でもそれに対して「ミカンちゃん!」とまなびは首を振ります。あなたはもうこの楽園にいることはできないのだと。そこから出て行く時が来たのだと。そしてこの楽園の記憶を一つの励みにして、それで世界に立ち向かわねばならないのだと。


 この12話ではっきりしたと思うのですが、「ま〜っすぐストレート!」という天宮まなびのライフスタイルは「天然」のものではありません。無邪気に何も考えずに彼女はこういう態度をとっているわけではなく、それは彼女の明確な「選択」だったのです。そしてこの彼女の意志が「学園」を変えたというのがこのお話の一つの柱。さらにそこから「旅立つ」ものとして描かれたミカンの在り方がもう一つの柱。
 結局このお話は、ユートピアの創造とリアルに向けてのそこからの訣別という「青春」のベタな(でもとってもすがすがしい)物語として生み出されているのです。


 これを「ビューティフル・ドリーマー」と重ねて語られた方もいらっしゃいましたが、もちろんそういう捉え方はありとしても、私にはこの両者が際立って異なるものに見えます。あちらにあったのは「永遠の学園生活」、そしてこちらは「夢の学園生活の獲得と喪失」。
 私見ですがこれは質的に大きく異なっています。「まなび」の方がメッセージ性は遥かに高いです。


 そして一年五ヵ月後、帰ってきたミカンとみんなはスプレーで落書きを始めます。
 これは、私には「社会」というものに何とか爪跡を残そうと頑張る彼女らの健闘といったものの象徴に思えました。「一晩で消えてしまうスプレー」。彼女らのどんな行動もまだまだ巨大なリアル、社会に対してはそれほどの意味を持ちえません。でもそれでもはしゃぎながら彼女らは何かをそこに残そうと走り回ります。
 それが最終的に意味を持ち得るか否か、それは全くわからないにしても、若い彼女らはとにかく動こうとする。これがこの物語の真の主題であって、そういう意味でこれは非常にオーソドックスな「成長物語」「青春物語」に見えるんですね。

ヨシモト鍋

 最近○○の一つ覚えみたいに私が繰り返し食べているのが「納豆とアボカドの和風サラダ」です。一応もっともらしいネーミングをしてみましたが、アボガド(1個)をさいの目にして納豆(1パック)と混ぜるだけの単純な一品です。納豆パックについてくるたれやからしはそのまま入れて、ちょっと味が足りないときにはだし醤油(めんつゆでいけます)を少し。冷蔵庫にあれば大根の千六本とかきざみ海苔・もみ海苔、ねぎでもかいわれでもトッピング。
 アボカドは十分黒く柔らかめになったのを使うというぐらいがポイントで、80円から90円ぐらいで安売りしているのを買い置きして(冷蔵庫で一ヶ月はもつ)柔らかくなったところで調理すれば安上がりです。
 これが御飯にもお酒にもあいまくり。(ただしアボカド1個でカロリーは300kcalを超えますから、いくら不飽和脂肪酸がほとんどといっても半分ずつ食べた方がベストでしょう。私は全部食べますが何か?)


 さて書こうと思ったのはそういうことではなくて、実はちょっと意外な人の「らしいのからしくないのかわからないレシピ」を見かけたという話です。

豚ロース鍋のこと


 食欲はたいへん小ぢんまりしてきたのに、いまでもテレビの食べ物番組はよく見ている。最近も衰えず話題にされるのは、中華そばの名店といった話である。味だけは負けないぞと、大小さまざまな店が登場する。小さな中華そば屋さんの若い店主が趣向をこらして、いいだし味をあみだしたことで、客が店前で行列をつくっている映像などが出てくると、そうだ頑張れ、味の世界は無限で多様だ、と応援したくなる。

 壮年のころ、「クック」という料理雑誌から自分でつくることができる家庭料理のことをと言われ、家人が考え出し、わたしもときどきつくっていた豚ロース鍋のことを書いた。中華そばの話の店主と同じで味はうまいぞ、うまいぞと他人に告げたくて仕方なかったが、本当にうまいか、独りよがりかはまったくわからないものだった。
 肉屋さんで豚ロースの薄切りを三〜四人分で四〇〇グラム、八百屋さんで白菜一個、玉ねぎ二〜四個を求める。底の浅い平鍋に水だけ入れ、白菜の葉先とお尻の部分を少し削いで、三〜四センチに切り分けたものを入れ、豚ロースの薄切りを白菜の間ごとに挟む。はじめは温和に、終わりに強火で煮て、おろした玉ねぎと醤油につけて食べる。
 酒やビールと一緒でも、炊き立ての熱い御飯と一緒でもいい。私には絶品だった。残った鍋には味噌を入れて、またぐつぐつ煮込んで豚汁にした。これもまた絶品だった。
(以下略)

 田舎のコンビニで、雑誌スタンドに一冊「dancyu(2007.4)」が置いてありました。今までにこの雑誌は三冊ほど買ったことがあったかと思うのですが、テーマが「日本酒の春・寿司の幸せ」とあったので十年(以上)ぶりぐらいに衝動買いしてみました。


 巻頭エッセイが冒頭に引用したもので、つらつら目を通してから誰が書いたのかなと見ると意外な名前が…吉本隆明氏のものでした。題名は豚ロース鍋となっていますが、末尾のあたりで詩人の故清岡卓行さんとの交流の話が出て、そこで清岡さんがこの料理のことを「ヨシモト鍋」と言っていたということが語られています。

 あの豚ロース鍋はわたしの誇れる唯一のつくりものだと、そう思っていいように感じた。こんなことは生涯に一度くらいはあるものなのだ。

 すっかり油気が抜けた感のある文です。「誇れる唯一のつくりもの」と豚ロース鍋を指して言うことには、結構重い含みがあるのかもしれません。


 もちろん前から吉本氏はこのヨシモト鍋を作られていたのでしょうがちょっと意表をつかれるように思えて、今このエッセイに接した私にはずいぶん肩の力が抜けた文だなあと変に好感をもって感じられるのでした。

被災時の情報収集には2ちゃんよりmixiというご意見

石川県能登沖地震で思う知人MLとしてのSNS

SNSでのコミュニケーション疲れや足跡コメント問題などが取りざたされていますが、SNSは知人MLツールとしてコミュニケーションが収束されるかも、と考えたりします。すでにmixi日記は日記としてではなく、引っ越しや結婚、長期海外出張などを知らせるために普通に使われていますし。


そして今回は、SNSは災害時にも役立つのだなあと感じました。