櫻の樹の下には

梶井基次郎『櫻の樹の下には』

櫻の樹の下には(さくらのきのしたには)は、梶井基次郎の短編小説。主人公が、桜の樹が美しいのは下に死体が埋まっているからであるという空想に駆られ、死体に象徴される惨劇(死?)への期待を深める物語。

この作品は全編に渡り主人公のモノローグという手法で以って描かれる。主人公は一般的に満開の桜の樹に代表されるように心の澄まされる美しい情景の直視に堪えられず、それらに負、即ち死のイメージを重ね合わせる事で初めて心の均衡を得ることが出来ると語る。美しいものと対峙した時、自らが劣等感を負う事を回避せん為にこうした不快を敢えて求めようと云う奨めであると解釈する。(日本語版Wikipedia

青空文庫桜の樹の下には


 梶井基次郎といえば『檸檬』(過去日記)が思い起こされるでしょうが、この「桜の木の下には死体が埋まっている」という言葉も(梶井の名とともにではなくとも)人口に膾炙していると思います。(それともこれにはもっと遡る原典があったでしょうか?)


 この梶井基次郎の大正十二(一九二三)年の日記です。

 性欲方面に働く吾人の鋭敏さは本当に窺ひ知ることが出来ない。独探の様に驚く様な所に働いてゐるものである、それは吾人の制抑、意識的な外的の意志ではその芽を抑へ盡すことが出来ない。それは最も強い無意識的に働く宇宙の意志である。

 自分自身でもコントロールできない性欲を「宇宙の意志」だと言い切っています。


 この時彼は京都の三高の理科の生徒で、二十一歳でした。この日記に言及しているのは、鈴木貞美『「生命」で読む日本近代 大正生命主義の誕生と展開』NHKブックス760、でしたが、何か見てびっくりしました。

 後悔ハ罪ヲナシタ直後ニ起コルモノデアツテ罪ヲナス直前ニ消ユルモノデアル、自分ハ罪ヲ作シタ直後ニコレヲ綴ル、綴ル俺ノ心ノ中ハ激シイモノガ動イテヰナイノハ何故デアラウ、ドウシテモJamesノ言ツタコトガ正シイ様ダ、

 こちらは十八歳の時、大正九(一九二〇)年12月3日の日記の記述です。ここでの「罪」は「自愛」のこと。それにしてもいきなりジェイムズの名がでてくるのには唐突の感がありますが、それについては前掲書でこう触れられています。

 行為に伴う意識の変化に着目するウィリアム・ジェイムズの哲学は、夏目漱石(一八六七―一九一六)が『文学論』(一九〇七)などの著述でふれているし、西田幾多郎(一八七〇―一九四五)の哲学にも影響を与えた。この青年は中学の終わりころに、熱狂的な漱石ファンだったし、西田幾多郎善の研究』(一九一一)や「自覚の哲学」について友達と論じあっている。いわゆる大正教養主義の哲学ブームの中にいたわけだ。それにしてもオナニーの前後の気持の変化に気づいて、それがジェイムズのいうとおりだとは……。これにも、ちょっとあきれる。(pp.14-15)


 桜の春のうららかな陽射しに「死体」を結びつけるような鋭い美的感性には、やはり風変わりで非常に強い自意識があったのだということかもしれません。下手に有名になると、日記が遡って読まれてしまうという怖さも感じてしまうのですが…

(書評)W・ジェイムズ『宗教的経験の諸相(上・下)』(岩波書店、1970年)

 前世紀初頭にかけての唯物的合理主義・科学主義が台頭する思想潮流の中で、非合理なるものの価値を再評価しつつ人間心理を探求し、独自の哲学・宗教観を構築した思想家にウィリアム・ジェイムズがいる。彼は人間から離れた「客観的」な主知主義的実在概念の在り方を批判する。彼が捉えた真理の実在性(reality)は一元的で静的なものではなく、人間との関りにおいてはじめて意味をなす多元的なものであった。彼はプラグマティストと称されるがそれは単純な実用主義などではなく、具体的人間経験の真の構造を探求する、フッサール現象学や日本の西田哲学の先駆ともいえる新しい哲学だったのである。
『宗教的経験の諸相』は、エディンバラ大学での自然宗教に関する講義を基にした彼の主著の一つ。本書では人間の宗教的欲求のあり方が、豊富な文献事例を基に、彼が個人的宗教経験と呼ぶ宗教の心理学的側面において探求されている。


 彼はまず存在命題「その起源・本質は何か」と価値命題「その意義は何か」とを分けて考える立場を宣し、前者の射程である起源論等に還元して宗教を評価することの誤りを言う。そして「その根によらず、果実によって」宗教および宗教経験を捉えていくのである。


 宗教的生活の果実として挙げられるのは、「祈り」(神的なものとの内面的交わり)によってもたらされる人間的な愛・心の平静・不屈の精神などの主観的効用であり、その「効用こそが宗教の真理性の論拠」とされる。
 これらは宗教的事象の心理学的事実への還元ではない。彼の議論の眼目は、生きた宗教の核心や真理の実在性を人間経験に即したところで捉えるところにこそある。
 ジェイムズの実在観・真理観は、静的・客観的で絶対的な真理を人間の外に立てることを拒絶する。そしてそれは、多元的真理の共存を相対主義に陥ることなく図る可能性を有する思想として、今なおわれわれに重要な示唆を与え続けている。                         (794字)


○ジェイムズ(William James, 1842-1910)の著作を訳本で入手するのは現在困難である。『宗教的経験の諸相』(日本教文社版もしくは岩波文庫版)、『世界の名著48パース、ジェイムズ、デューイ』(中央公論社)は図書館利用が適当。『根本的経験論』(白水社イデー選書)のみ現在も購入可能。Harvard University PressThe Works of William James(1975-)や、単著ならばDover PublishersのPragmatism(1995)を手に入れることも考慮に値する。


 (※わんこ再会記念!某所に書いた書評の原稿を転載します。ま、一応こういう人という紹介の意味で…)

依然として(追記!)

 姿を見かけません。大丈夫かなと気にかかります。


 いました! おばあさんの家の濡縁のところで寝ています。
 今朝の七時前に見に行った時はいなかったのですが、息子さんが帰ってきているようですので、何とかしてくれたのだと思います。足もついてます。動いてないのでまだ引きずっているかどうかわからないですが、とりあえず「大安心」です。


 何か重い気分が晴れました。なんでこんなに気になったのか…。でもよかったです。