hishimaruさんへ

 いや「そのうち」、「後で」でほんとに結構だったんですが…(笑)
 【uumin3さんに対する私信のようなもの】についてです。
 まずは項目で列挙されているところから、

uumin3さんの定義において「道義的責任」とは「義務のない責任」であり、辞書的な意味においては語義矛盾となります。
混乱を招きますので、「道義的責任」という概念に「責任」の文字は入れないほうがいいと思います。


また、uumin3さんの定義における「道義的責任」とは、「負うべき義務に対する主観的評価」のことです。
これは一般的な意味での「責任」とは関係のない概念であり、


「道義的責任は、どんな場合でも誰にとっても等しく自明というものではないので、普遍的ではないため、客観的に決められる義務というものはない」
という論理は
「りんごの価値は、どんな場合でも誰にとっても等しく自明というものではないので、普遍的ではないため、客観的に決められる値段はない」


という論理と同じ詭弁です。

 私は敢えて定義という言葉は使わなかったのですが、自分はこう考えるという線の提示はいたしましたのでそれで…。まずりんごの価値から。
 りんごの価値は当然「どんな場合でも誰にとっても等しく自明というものではないので、普遍的ではないため、客観的に決められる値段はない」のですよ。そうじゃないですか? 値段は付きます。交換価値とか流通価値といったものは決められます。でもそれは絶対的な価値じゃないですよね。もし誰もりんごを欲しがらなければ、仮定の話ですとそれは無価値という極論だってあり得るわけです。
 これは詭弁じゃないですよ。まあちょっと聞いてください。それではなぜその交換価値が決められるのかです。
 それは人が欲するから。人がそこに価値を認めるからと言っても良いでしょう。それを欲しがる人が出て初めてりんごの価値(相対的価値)が決められてくるのです。
 道義的責任と私が言うものも同じ構造です。それはある意味事後的にしか「責任」とは認められないものです。それは「責任を果たした」という社会的な(というより集団的な)枠組みの認証を受けてから初めて責任となる(責任として確定すると言ったほうがいいかも)類のものです。
 法的責任(の構造)は違います。それはこれこれの行為に対してこれこれの義務があって、それを果たさない場合はこれこれの罰を受ける云々という決め事が明文化されている(はずの)ものです。(一定の範囲のぶれや抜け穴なんかは実際にあるでしょうけれど)
 道義的責任は「負うべき義務に対する主観的評価だ」とおっしゃいますが、法的に定められたもの以外の「負うべき義務」というのがすでに「主観的」なものではないんですか?


 ですからね、これはトートロジーだからおかしいというものではなくて、むしろその在り方がトートロジカルにしかあり得ないという類の概念なんです。

 美人投票が決めるものは何か、それは美人である。
 それならば美人とは何か、それは美人投票で勝った人のことである。

 実は道義的責任というのもこうした類のものだと私は思っています。
 ですから、本当は辞書的にA=Bの定義づけがきちんとできるものじゃないんです。hishimaruさんも首を捻っておいでだったでしょう? あんなに茫漠とした辞書的定義に大した意味はありませんよ。


 次に、

法的責任を問えない行為に関しては、義務を問えない。つまり責任はない。


そういうことでしょうか?


この場合、「内輪の論理に規制されて問われる責任」というものには「義務はない」という考え方なのでしょうか?

 これは「自分で引き受けた時に(自分に対して主観的に)義務が発生し、それが誰かに認められて責任として完結する」、という感じでしょうか。その「内輪」に属した者からはローカルルールで当然の責任に見えていたとしても(本人を含めて)、そのルールの適用外の者からはそこに明確な義務があるようには見えないのです。
 すなわちそれはある意味主観的な義務ですし、本人がそこから「一抜けた」すれば(その「内輪」関係、お仲間関係は失ってしまうものの)、その外ではそんな義務なんてなくなってしまうものです。


 おわかりいただけましたでしょうか? 取り敢えずこういったところをお答えにさせていただきます。
 夕方まで時間が取れませんでしたので(昼は思いつきで下のエントリーを書いてましたので)遅くなりましたが、まあこういうところです。大変自分でも面白い議論だとは感じております(笑)

メモ

「G★RDIAS - 「加担する」とは何をすることなのか」にリンクしているrandompoleさんの「非対称性」というエントリーに興味を引かれます。

 不作為と結果の間には基本的に因果関係は無い。

 あたりはもっと自分も考える価値がありそうに思いました。

プレゼンテーション

(四、五十代絡みの標準語で話しているつもりの関西人のおっちゃんが話しているイメージ)
 …ところでね、ホームレスの人たちいますよね。いやあ実はほんのたまに炊き出しとか手伝ってるんですよ、私。たまたまそういうことしてる牧師さんが知り合いにいてましてね。そう。夕ご飯一食用意するぐらいですけどね。びっくりしますよ。結構な数の人たちが集まってくるんですわ。そういう炊き出しは受けないって頑張られる方も少なくないんですけどね。いえいえ身の危険てあなた、むしろ怖がってるのはホームレスの人たちですよ。そう、新聞とかでもありますよね。悪いのがいるもんです。直接会って話してみればね、そりゃあの人たちも普通の人間だってわかりますよ。もちろん身の上なんて根掘り葉掘り聞くようなまねはしませんけど、こう、ね、何回か食事につきあってぼちぼち言葉を交わしていくとわかるんですわ。この人たちも自分らとかわらんなってね。いや、いろんな人がいますよ。おっさんがほとんどですけどね。たまに若いのとか女の人とか。ブログやってる人もいますよブログ。ブログ知りませんか?そうそうそれそれそれですよ。家はないけどネットカフェーたらいうところから時々つないでおられるそうでね。あなたより進んでますな。犬飼ってる人もいますね。ぜいたくって、そう、傍からぜいたくに見えるかもしれませんけどね、これ自分の食べるもん削ってもわんこにあげてるんですよ。止めるわけにもいかんでしょう。ああ、あなたは猫派でしたか。半野良の猫もね、いるんです。これがもうかわいいかわいい。そうそうそうわかるんですよね、猫にもいい人とか悪い人が。去勢ですか?さあ、やっぱりしてないんじゃないですか。さすがにそこまでお金が回らんでしょう。でもそれより本人さんたちの病気が大変なんですわ。私らとは違うグループでね、医療相談会とか時々やられる方から聞いたんですけどね、やっぱり保健保険がないでしょ?病気が一番の不安だっておっしゃるんですよ。それでね、実際に発病する人もそうなんですが明日のこともわからないような境遇でしょ?やっぱりストレスで神経が参っちゃってる人も多いそうでね、何とかならんかなあって言っとられましたね。それ知ってるもんですからね、犬猫をどうのこうの言えないんですよ。精神衛生でね、アニマルテラピーたら…そういうもんだと思いますよ。いえね、あの人たち見てるとほんとに運が悪いだけなのかなぁって時々思います。運だけでこれだけの人がこう野宿しなきゃいけなくなるもんかってね。どっか社会の方で間違ってるところもあるんじゃないですかね?明日はわが身って思う人も多くないんですわ、実際。私もね、昔は自業自得やろと思うとこもありましたけどね、本人目の前にするとそうやって責めていいもんじゃないなと正直思いますよ。全部が全部本人の責任とかいうことはさすがにないでしょ。みんないろんな人生抱えておられるんですわ。私はほんとにね、いや愚痴も時々いいますけどね、あ、飲んだとき煩かったですか、勘弁してください。いやそうやってね、愚痴も言うわけですがね、今は恵まれてるなあってちょっと思えるんですよ。そう思えるからほんの時々ですけどね、支援活動のお手伝いをさせてもらってるんですわ。自立支援ですか?そりゃ何かかにか行政がやってるもんもあります。全然助けになってないとは言いませんけどね、足らないようですしね、どっかあさってのほう向いた支援だったりね、ひどいのになるとおっちゃんたちいじめてるんじゃないかっていうのもあるみたいですね。ここらは幸いそういうのはあまりないですけど。施設ですか?ええ私が実際に行ったわけじゃないからあれなんですけどね、どうにもこうにも中途半端だって聞いてますよ。半年入ったらまたどうせでなきゃいけないとかですしね。おっちゃんらが今持ってる私物とかも持っていかれんみたいですしね。猫とだってお別れですよ。急に明日から入れって言われてもなかなかできないのと違いますか?どうです?そこらへんは直接ご本人さんたちに聞いてみられては?またね、来週炊き出しがあるんですわ。あ、そう。そうですか。いややっぱり急は無理ですわな。まあね、今どうのこうのすぐ動けないというのもわかります。残念ですけどまた今度ね、今度お誘いしますよ。どうです、もしよろしかったらこっちでまとめた簡単なパンフレットがあるんですよ。今度お預けしますから読んでみてください。カンパとかはいつでも歓迎ですわ。いやいや直接はまずいですし、私飲んでしまいますよ(笑)まず私らがどんなことやってるか知っていただいてね、それで末長くおつきあいいただいたほうがね。そのほうが長い目でみればいいんですよ。まあこういうのに関わってますとね、無関心が一番怖いんですわ。だからね、ちょっと話を聞いてやろうってね、そう思ってくれただけでありがたいですほんとに。まあね、いろんな人生ですからね。こうやって話を聞いていただいたのも他生の縁でしょうしね、またお願いしますわ。あとね、こういう話を誰かにしてみて、少しでも興味がありそうな人があったらこの私の名刺、これお渡しいただけませんか?この連絡先にお電話でもいただけたら、ええ、ええ若い人大歓迎ですよ。若いうちはなんでもできる。歳取るともう気力が落ちてだめですわ。あっはっは。


 …というような情宣を考えてみました。
(※このお話はフィクションです)

ハゲワシと少女

 煩悩是道場で「報道写真は「誰かの犠牲」の上に成立しているのか」という記事を読ませていただきました。
 『ハゲワシと少女』という写真を撮ったカメラマンを、「写真家の撮影した雑誌や新聞を購入したり、エアコンの効いた部屋でコンピュータを使うなどというおおよそ地球環境に優しくなくそして飢餓に苦しむ人たちの生活を圧迫しているような私たち」が批判できるのか? って問われたら、もちろんできないですよ。その主旨でここでululunさんがおっしゃっていることには納得です。


 ただ、このカメラマンが批難されたのは「飢えに苦しんでいる人を見殺しにするなんて!」ということではなくて、ハゲワシにいま生命を狙われている(ように写真から見える)少女を助けなかった(と思われる)そのことでの批難だったとは考えます。ここで自分の田んぼに水を引きますが、これは「惻隠の心がない」っていう感じのところ、井戸に落ちそうな子供を見過ごしたという意味で批難されたのでしょう。
 ululunさんも

飢餓に苦しんでいる少女がハゲワシに生きた儘食われているとかだったら「ちょwwwヤバスwww」とか言って少女を助ける、かもしれないけど

とされているように、目前の誰かの危機に(できるのに)コミットしないという行動は考えられない(考えたくも無い)タブーであるのでしょうし、あまりにもこの「ハゲワシと少女」という写真が「危ない」と感じさせるだけの力を持っていて、その実力ゆえに謂れのない批難を呼び寄せてしまったということがあるのだと思います。
 飢餓の象徴として「ハゲワシと少女」が撮影されたにしても、そしてその後そういう意味で人に影響を与えたにしても、まずそこであった受け取られ方は「まさに命尽きてハゲワシに食べられそうに見える一人の少女」そのものだったんですよ。
 だから批難は脊髄反射的なもので、カメラマン側の言い分がもっと聞かれてもよかったはず。ですから自殺とも思える死に方をしてしまったカーターさんのことは悼まれてなりません。


 そして報道の役割、ジャーナリズムの使命といったところに思いを馳せるわけですが、四月二十日という今日この日には、


 写’89 地球は何色? サンゴ汚したK・Yってだれだ


 というところにも目がいって、なかなか難しいとしか言いようがないところもあります。