ハゲワシと少女

 煩悩是道場で「報道写真は「誰かの犠牲」の上に成立しているのか」という記事を読ませていただきました。
 『ハゲワシと少女』という写真を撮ったカメラマンを、「写真家の撮影した雑誌や新聞を購入したり、エアコンの効いた部屋でコンピュータを使うなどというおおよそ地球環境に優しくなくそして飢餓に苦しむ人たちの生活を圧迫しているような私たち」が批判できるのか? って問われたら、もちろんできないですよ。その主旨でここでululunさんがおっしゃっていることには納得です。


 ただ、このカメラマンが批難されたのは「飢えに苦しんでいる人を見殺しにするなんて!」ということではなくて、ハゲワシにいま生命を狙われている(ように写真から見える)少女を助けなかった(と思われる)そのことでの批難だったとは考えます。ここで自分の田んぼに水を引きますが、これは「惻隠の心がない」っていう感じのところ、井戸に落ちそうな子供を見過ごしたという意味で批難されたのでしょう。
 ululunさんも

飢餓に苦しんでいる少女がハゲワシに生きた儘食われているとかだったら「ちょwwwヤバスwww」とか言って少女を助ける、かもしれないけど

とされているように、目前の誰かの危機に(できるのに)コミットしないという行動は考えられない(考えたくも無い)タブーであるのでしょうし、あまりにもこの「ハゲワシと少女」という写真が「危ない」と感じさせるだけの力を持っていて、その実力ゆえに謂れのない批難を呼び寄せてしまったということがあるのだと思います。
 飢餓の象徴として「ハゲワシと少女」が撮影されたにしても、そしてその後そういう意味で人に影響を与えたにしても、まずそこであった受け取られ方は「まさに命尽きてハゲワシに食べられそうに見える一人の少女」そのものだったんですよ。
 だから批難は脊髄反射的なもので、カメラマン側の言い分がもっと聞かれてもよかったはず。ですから自殺とも思える死に方をしてしまったカーターさんのことは悼まれてなりません。


 そして報道の役割、ジャーナリズムの使命といったところに思いを馳せるわけですが、四月二十日という今日この日には、


 写’89 地球は何色? サンゴ汚したK・Yってだれだ


 というところにも目がいって、なかなか難しいとしか言いようがないところもあります。