アメリカンアカデミズム的アニメ批評
h-nishinomaruさんの「批評が生む歪な読者」という記事を引いて、Maybe-naさんが「批評の批評による批評のための批評……作品に対するアカデミックな分析が単純化されがちなのは、アメリカから輸入してきた社会学の応用だからではないか?」というエントリーを書かれています。
最初のh-nishinomaruさんの記事では「批評→漫画→批評、という歪な順番で漫画を読む人たち」をネガティブに考え、その「歪な順番」の拠ってくるところに「わかりやすい(ありがちな)批評」を捉え、それが「社会現象(風俗)として解説する社会学的批評」的なものであって、とてもわかりやすい(単純さをもった)アメリカ社会学に由来するからではないかと問題提起されています。
で、Maybe-naさんは、
そんなわけで、アメリカの社会学と日本における作品批評(特にアカデミックなもの)との共通点を探すのも、結構面白いかもしれないと思いました。「単純でわかりやすいからおたくにウケた」というのも、そっちの方がなんとなく正しそうだと思ったり。
とされているのですが、私が思い出したのは以下に挙げるアメリカの学者がものした「アニメ批評」です。
スーザン・J・ネイピア『現代日本のアニメ AKIRAから千と千尋の神隠しまで』中公叢書、2002年(神山京子訳) 第一部 序説 1 なぜアニメなのか 2 アニメの日本、そして世界におけるアイデンティティ 第二部 身体、変身、アイデンティティ 3 『AKIRA』と『らんま1/2』―怪異な若者 4 肉体の支配―ポルノフラフィー・アニメにおける身体 5 ゴーストとマシーン―テクノロジー化した身体 6 ドール・パーツ―『攻殻機動隊』におけるテクノロジーと身体 第三部 魔法の少女とファンタジーの世界 7 現実ばなれした存在の魅力―宮崎駿の「少女」の世界 8 ロマンチックコメディにおけるカーニバル性と保守性 第四部 国家という物語のリメイク―歴史を見据えるアニメ 9 無言の訴え―『はだしのゲン』『火垂るの墓』、そして「犠牲者としての歴史」性 10 『もののけ姫』―ファンタジー、女性性、「進歩」という神話 11 世界の終わりを待ちながら―終末のアイデンティティ 12 挽歌 終章 分裂した鏡 附論1 五番目の視点―欧米人にとっての日本のアニメーション 附論2 カーニバルと封印の美学―宮崎駿『千と千尋の神隠し』
著者のスーザン・J・ネイピア(Susan Jolliffe Napier)氏は1955年生まれ。専攻は近代日本文学。'84にハーバードでph.Dを取得。現在テキサス大学三菱日本学科教授です。
アメリカの文芸批評も(おそらくh-nishinomaruさんの想像を超えて)結構図式的なもので、単純化して論理的に解釈してみせるその手法は社会学に留まらないという感想を思いっきり持ちます。
この本でネイピア氏はさまざまなアニメを三つの主要な表現モード、「終末モード」と「祝祭モード」そして「挽歌モード」という観点から論考し、それらと文化的アイデンティティ(<アイデンティティ理論はもともと心理学ですよね)との絡みで図式化して論じています。
何かとても乾いた(ドライな)作品の捉え方がここにあるように思いました。日本のアニメ批評は、良くも悪くも思い入れがウェットな感情をどこかに醸し出していて、それを顕わにしていても隠していてもこれほど客体的に作品を扱えないような気がします。
もしかしたらそれは、このネイピアさんが「otaku」として育っておらず(最初に日本のマンガ・アニメに出会ったのは彼女が34歳になったときの『AKIRA』だそうです)、そこから非常に興味を持って熱中したにせよ、今の日本でアニメ批評をされる方々が小さい頃からマンガ・アニメに触れて育っているのとは血肉度が違うという事情もあるかもしれません。あちらのotakuが長じて批評を書くようになれば、また違った趣の(もしかしたら今の日本のそれに類似の)アニメ批評も出てくるのかもという想像はできます。
一つ言えるのは、この本はそれなりに面白かったのですが、その分析の手法や結論の導き方が現代アメリカの文系の他の分野の(学術的)エッセイとまったく同じような雰囲気を持っていたということです。アメリカの学者さんは(文系でも)テニュアを得るためにとにかく業績を量産しなければなりませんので、どうしても時間をかけて大きい仕事をするよりコンパクトにまとまったエッセイをどんどん書かれます。ある種その弊害かもしれないのですが、発想・切り口の独創性はともかく、扱い方はどれも似たようなものになってしまうのではないかと感じています。
必ずしも「社会学」に限定されるものではなく、こういう「わかりやすい」論考は一杯出てきていますので、それに触れた日本の批評家さんたちがわかりやすさ・単純さ・図式化といった部分で影響を受けてきているということはあるのではないでしょうか。そしてそれがアニメ批評にもすぐにでもやってきそうな気配はあると…。
ちょっと暗い予想かもしれませんが、そんなことを考えました。(ただ私は「妙に強い思い入れ」というところに希望も見ているのですが…)
追記
ついでにそれぞれの章で扱われている作品を書いておきます
3 『AKIRA』と『らんま1/2』―怪異な若者 『AKIRA』『らんま1/2』 4 肉体の支配―ポルノフラフィー・アニメにおける身体 『妖獣都市』『聖獣伝』『淫獣学園』『キューティーハニー』 5 ゴーストとマシーン―テクノロジー化した身体 『強殖装甲ガイバー』『バブルガム・クラッシュ!』『バブルガム・クライシス』 『新世紀エヴァンゲリオン』 6 ドール・パーツ―『攻殻機動隊』におけるテクノロジーと身体 『攻殻機動隊』 7 現実ばなれした存在の魅力―宮崎駿の「少女」の世界 『となりのトトロ』『魔女の宅急便』『風の谷のナウシカ』 8 ロマンチックコメディにおけるカーニバル性と保守性 『うる星やつら』『ああっ女神さまっ』『電影少女』 9 無言の訴え―『はだしのゲン』『火垂るの墓』、そして「犠牲者としての歴史」性 『はだしのゲン』『火垂るの墓』 10 『もののけ姫』―ファンタジー、女性性、「進歩」という神話 『もののけ姫』 11 世界の終わりを待ちながら―終末のアイデンティティ 『うろつき童子』『風の谷のナウシカ』『AKIRA』『新世紀エヴァンゲリオン』 12 挽歌 『おもひでぽろぽろ』『MEMORIES』『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』
自分何回?
訳しますと「あなたは(大学の)何年生?」とでもなるでしょうか。関西あたりの大学にいますと、フランクに「自分*1何回?」と(大抵は本人より若そうな人に)聞く人がいます。大学での学年を「年生」で表すのは東日本に多く、「回生」で表すのは西日本に多いでしょう。
この頃は結構知られてきましたが、これはそれぞれ東大の制度と京大の制度に由来するという話です。
東大が各学年で取得すべき単位を決めた「学年制」を取っていた(所定の単位が取れなければ留年)のに対して、京大は卒業するまでに取得する単位だけ緩く決める「科目制」を取っていました。極端に言えば4年目まで一つも単位を取っていなくても京大なら4回生になれるのに対して、東大なら1年生のまま(もしかしたらどこかで放校になるかもしれませんが)ということですね。
そしてそこらへんのカリキュラムが(あるいは呼び方だけが)後発の周辺の大学に影響して、関東では「年生」、関西では「回生」という具合になったというのがどうやら由来のようです。
産経新聞の論説、【主張】漢字習得度調査 弊害が多い学年別配当表 を読み、どうせ小学校で「留年」をさせないのならば、小学校で憶えるべき漢字は大枠で決めておいて、どこからどう教えるかは現場の裁量に任せたらいいのではないかと思いました。
教科書(国語)のバリエーションは今より多くしなければならないかもしれませんが、それこそこの論説で主張するように「最初からとにかく難しい漢字でも(ルビつきで)提示する」という手法も、それを選びたいと考えてノウハウを持つ学校から採用していけばいいのです。もちろん従来の方法でいいという学校はそうしたらいいだけで。
もし前者に顕著な効果が現れるということになれば、ノウハウつきでいろいろなところに拡がればいい…。こういう制度改革はどんなものでしょう?
学年の縛りをちょっと緩めるというのはいい考えのような気がして、それで昔のことを少し思い出したのでした。
*1:「あなた」という二人称を指す言葉。西に多いです。