一人っ子政策という人権蹂躙

中国チワン族自治区で一人っ子政策に反発暴動、数十人死傷

 【香港=吉田健一】香港各紙によると、中国広西チワン族自治区博白県の村で19日、「一人っ子政策」のための堕胎強要や厳しい罰金徴収などに反発した住民数千人が、役場を焼き打ちするなどの暴動を起こした。


 同県内7〜8か所の村で同様の事態が起きており、村幹部が逃げ出したほか、当局者を含む数十人が死傷したとの情報もある。


 報道によると、地元当局は今年2月、一人っ子政策の実施状況が不十分との指摘を上級機関から受け、違反者の徹底取り締まりを開始。村内を巡回する摘発チームが、39歳以下の女性全員について同政策に違反していないかどうか調査し、これまでに違反者ら1万7000人以上の女性に、不妊手術や中絶手術を強制したという。


 また、違反者が罰金支払いを拒否するなどした場合は、当局者が、家をたたき壊したり、テレビや電化製品、家畜など家財の大半を持ち去ったりしていたという。(後略)
(2007年5月22日10時27分 読売新聞 強調は引用者)

 これも人権無視のひどい話だと思ったのですが、記憶の中では中国の一人っ子政策少数民族除外ではなかったかと…。それでWikipediaを見てみると、やはりそういう記述があります。
 日本語版Wikipedia「一人っ子政策」

 一人っ子政策(ひとりっこせいさく)とは、中華人民共和国における人口規制政策を指す。公式には計画出産と呼ぶ。改革開放政策が始動した1979年に始まった。幾何級数的人口増に法規制を加え、出産または受胎に計画原理を導入した。この政策の効果によって現在の中国本土では少子化が波及している。

 ちなみに、少数民族に対しては免除され、反対に人口が増えるという結果になっている。また、この政策は、あくまでもお互いに中国人の夫婦のみ適用されるため、夫と妻の片方が外国人の場合は、この政策は適用されない。
 (強調引用者)

 その後政策に変更でもあったのでしょうか? チワン族の方を調べても、特に他の少数民族と異なるところはないと見えます。
 チワン族 zhuang zu Zhuang ethnic minority group

人口は1617万8811人。


チワン族少数民族の中で人口の最も多い民族である。主に広西チワン族自治区雲南省の文山チワン族ミャオ族自治州に集まり住み、わずか一部が広東省湖南省貴州省四川省などに散在している。


チワン語は漢・チベット語系のチワン・トン語族チワン・タイ語分支に属し、南北二大方言に分かれる。


南宋の時代に漢字をもとに独自の文字がつくられたが、標準にはならなかった。1955年にはローマ字をもとにしたチワン語の文字が作られた。チワン族の人たちのほとんどは漢語(中国語)を使用している。
(中略)
1958年3月15日、広西チワン自治区が発足し、チワン族の人民は主人公になる権利を獲得した。チワン族の人たちは主に農業に携わり、米やトウモロコシの栽培を主とする。チワン族の人たちは歌が好きで、チワン族の人たちの住んでいる村は「歌の海」とたたえられている。きれいなチワン錦織はチワン族の伝統的な工芸品であり、内外で知られている。
 (チャイナ・ネット)

 これはもうかなり政権寄りの報道機関の公式見解ですが、何も変わった情報は得られません。ベトナム国境のあたりの少数民族なのですね。あるいは「自治政府」が当局者として「一人っ子」を強制するように(中国政府が仕向けている)とかいうことなのかもしれませんが、いずれにせよ惨い話です。

知恵と知識

 かなり以前に知恵と知識はどう違うんだろうと考えたことがありましたが、その時は大まかに「知恵」は応用力で「知識」は体系、というように結論づけたと憶えています。他の人にもわかるように書けば、「知恵」は「実際の場面で、それまで知っていることを元に、それを応用して何らかの物事に対する(処理する)働き」だと考え、「知識」は「知っていることの総和だけど、体系的なもの」と思ったわけです。後者については、硬く「知識」と呼ぶようなものは「学知」だとイメージされたのですね。それから概ねこういう解釈でずっと通してきました。


 「おばあちゃんの知恵」とかいう言葉もあります。知恵で問題にされるのは知っていることの多寡ではなく、言ってみれば処理/適用の見事さ、あるいは瞬発力とか適用後の見通しの正しさなども含めたそういう応用力だと思います。それがこまごました生活実践上の知識的なものであったり、人間性に対する深い洞察などという感じであったりすることもありますが、基本的には応用の働きが知恵で、「ほんとうに頭のいい人」とかいう尊称が贈られるのはこういう応用力に長けた人ではないかとも感じます。
 知識がある人は基本的にはその量的なもので優劣があるという感じですが、質的なところ、その知識が体系化されているかとかどういう分野であるか(社会的承認を受けているかどうか)などで、がらりと評価が変わるものかもしれません。ヲタク知識も雑学も学問的知識も知識というところでは変わりはないのですが、最近は少し風向きが変わってきたとは言えそこに社会的な評価の格差はありますね。ただどちらにせよそこに実践的応用力がないと看做されれば「ムダ知識」扱いされかねないのは同じで、「タコツボ知識」とか「学者は世間知らず」とかいった悪口が後者に浴びせられることもあります。そういうときはたいてい「活かせない知識を持っている」すなわち「知恵がない」という捉えられ方で、一緒に評価されるのでしょう。


 ただこの知恵と知識の両者はまるで関係のない異なるものではなく、「知」の持つ二つの側面かもしれないとは思えてきています。うまく実践的な応用を利かせようとすれば知識が多いに越したことはなく、せっかくの知識も応用できなければ無駄であるという点でこの二つは表裏を為していると思うのです。理想を言えばたくさん知識があって見事な知恵がある、というのが最高でしょうが、なかなか実際にはそううまくはいかないもの。それが素敵にはまれば「賢者」などというイメージかもしれません。


 個々の倫理と学知としての倫理学の関係も、大づかみで見ればこの知恵と知識のアナロジーで語れるような気がします。それぞれの倫理はそれぞれの臆見でしかないかもしれず、できればそこに豊富な知識の裏付けは欲しいもの。ただ倫理学もあくまで個々の倫理をうまく働かせるために役立ってこそというところがある…。そういう感じではないでしょうか。(ただし、倫理学が哲学的営みに近づけば近づくだけ「正しいもの」を疑ってかからねばなりませんから、その意味ではいったん応用性に欠ける方向に向かわなければならないのだとも思いますが)