知恵と知識

 かなり以前に知恵と知識はどう違うんだろうと考えたことがありましたが、その時は大まかに「知恵」は応用力で「知識」は体系、というように結論づけたと憶えています。他の人にもわかるように書けば、「知恵」は「実際の場面で、それまで知っていることを元に、それを応用して何らかの物事に対する(処理する)働き」だと考え、「知識」は「知っていることの総和だけど、体系的なもの」と思ったわけです。後者については、硬く「知識」と呼ぶようなものは「学知」だとイメージされたのですね。それから概ねこういう解釈でずっと通してきました。


 「おばあちゃんの知恵」とかいう言葉もあります。知恵で問題にされるのは知っていることの多寡ではなく、言ってみれば処理/適用の見事さ、あるいは瞬発力とか適用後の見通しの正しさなども含めたそういう応用力だと思います。それがこまごました生活実践上の知識的なものであったり、人間性に対する深い洞察などという感じであったりすることもありますが、基本的には応用の働きが知恵で、「ほんとうに頭のいい人」とかいう尊称が贈られるのはこういう応用力に長けた人ではないかとも感じます。
 知識がある人は基本的にはその量的なもので優劣があるという感じですが、質的なところ、その知識が体系化されているかとかどういう分野であるか(社会的承認を受けているかどうか)などで、がらりと評価が変わるものかもしれません。ヲタク知識も雑学も学問的知識も知識というところでは変わりはないのですが、最近は少し風向きが変わってきたとは言えそこに社会的な評価の格差はありますね。ただどちらにせよそこに実践的応用力がないと看做されれば「ムダ知識」扱いされかねないのは同じで、「タコツボ知識」とか「学者は世間知らず」とかいった悪口が後者に浴びせられることもあります。そういうときはたいてい「活かせない知識を持っている」すなわち「知恵がない」という捉えられ方で、一緒に評価されるのでしょう。


 ただこの知恵と知識の両者はまるで関係のない異なるものではなく、「知」の持つ二つの側面かもしれないとは思えてきています。うまく実践的な応用を利かせようとすれば知識が多いに越したことはなく、せっかくの知識も応用できなければ無駄であるという点でこの二つは表裏を為していると思うのです。理想を言えばたくさん知識があって見事な知恵がある、というのが最高でしょうが、なかなか実際にはそううまくはいかないもの。それが素敵にはまれば「賢者」などというイメージかもしれません。


 個々の倫理と学知としての倫理学の関係も、大づかみで見ればこの知恵と知識のアナロジーで語れるような気がします。それぞれの倫理はそれぞれの臆見でしかないかもしれず、できればそこに豊富な知識の裏付けは欲しいもの。ただ倫理学もあくまで個々の倫理をうまく働かせるために役立ってこそというところがある…。そういう感じではないでしょうか。(ただし、倫理学が哲学的営みに近づけば近づくだけ「正しいもの」を疑ってかからねばなりませんから、その意味ではいったん応用性に欠ける方向に向かわなければならないのだとも思いますが)