アウシュヴィッツとナショナリズムとは同じ話か?

 東浩紀氏の「東浩紀の渦状言論」finalventさんの日記(「東浩紀さんへの返信」など)で少し議論が始まりかけて、そしてなんだか「読者に判断を委ねる」というところで納まってしまったようです。
 ポイントはナショナリズム全体主義、そして反ユダヤ思想やアウシュビッツの関係の問題に集約されるというところは御両者が語られている通りだと傍からも見えます。


 東氏は上記リンク先の記事の「追記」で

 どうしよう、アーレントとかラクー=ラバルトとか参考文献に上げるべきなのか? とりあえずはfinalventさんが信頼するウィキペディアにも、「ナチズムの特色は、特にその民族の概念にみられる。ナチ党の「血と大地」「血の純潔」「ゲルマン民族の優秀性」という民族概念は、国内的にはユダヤ人排撃の思想となり、対外的には他民族を侵略してその支配下に置かんとする軍国主義を正当化する思想となった」って書いてあります。そんなこと言っても、また揚げ足とられるのかな。国家と民族とネイションは違うとか? そりゃ違うけど繋がってもいます。大澤さんの本でもなんでも読んでください。

 とおっしゃっているのですが、自分の記憶の中ではアーレントにしてもナショナリズムアウシュビッツを短絡的につなげることは言っていなかったと思いましたし、むしろ「ナショナリズムはダメ、絶対。それはアウシュビッツにつながるから…」というようなナイーブな話は、こと日本でしか通じないんじゃないかという感触を持っておりました。個人的には。


 ということで帰宅してアーレントの『全体主義の起源』(みすず書房)を読み返してみました。同書の第一章、邦訳p.2にすでに次のような一節があります。

 …
 反ユダヤ主義をショーヴィニスムや外国人嫌いと同一視することもこのような作業仮説の一つである。反ユダヤ主義は伝統的な国民感情と純粋にナショナリスティックな思考が強度を失って行くのに正確に比例して成長し、ヨーロッパの国民国家体制が崩壊した時点において絶頂に達しているという事実を見れば、この同一化は成立しない。ナツィの国民社会主義は普通、国民社会主義者は決して単にナショナリストであるわけではなく、過渡期のあいだ住民中の伝統志向的なサークルからも同調者を獲得するためにナショナリズムのスローガンを利用していたにすぎないことを理解していた人々からすらも過大評価されている。しかし本当のナツィ党員には、党の抱懐する国家を超えた目標(シュープラナショナル)を見失うことは決して許されなかったのである。戦争のあいだソ連でまきおこされたナショナリスティックな宣伝がボルシェヴィーキ政党の指導者たちにそのインタナショナルな目標や信念を失わせなかったと同様、ナツィの宣伝もナツィ党員を今まで以上〈ナショナル〉にはしなかった。ナツィは彼らが最初から持っていたナショナリズムへの軽蔑、彼らには狭隘な地方的なものと思える国民国家への軽視を一度も撤回したことはなかった。そのかわり彼らは、自分たちの〈運動〉は共産主義のそれと同様にインタナショナルな規模と意義を持ち、またそのようなものとして、その本質からして一定の画定された領土というものに拘束されているすべての国家―たとえそれが自国であっても―よりも重要であると強調して倦まなかった。しかしナツィの歴史だけではなく、すくなくとも七十五年にわたる反ユダヤ主義運動の歴史が、ナショナリズム反ユダヤ主義とを同一視することに対する明白な反証となっている
 (大久保和郎訳。強調は引用者)

 記憶の中の印象はまずまずあたっていたようで、この件に関して、ハンナ(ハナ)・アーレントの名前まで出して非常に単純な話をしようとしていた東氏に対しては(アーレントの他の著作での記述を挙げて反証されるとかいうことがない限り)、一読者の判断として軍配は上げられないということですね。

グーグー

 猫好きの友人宅に先日伺った際、猫のサバって知ってる?と聞かれ、知らないと答えたらぜひ読んでみるようにと一冊のマンガを持ち帰らせてくれました。大島弓子の『グーグーだって猫である』(角川書店)です。
 大島さんは『綿の国星』をLaLa連載中に時々目にしたぐらいで、当然猫好きなのだろうとは思っていましたが、こういうマンガエッセイを描かれているとは全く知りませんでした。
 この本は、大島さんが13年と5ヶ月と1日一緒に暮らしていたサバという猫が亡くなった後から始まります。そして、その空虚さが癒えないうちに新しく彼女のところにやってきたグーグーというアメリカンショートヘアとの暮らしが淡々と描かれているのが本書でした。

 そういう
 後悔とザンゲの中
 グーグーは我家に
 やってきたのだ


 二度目の猫は
 トクである


 死んだ猫の分まで
 大切にされる


 ということは
 サバがグーグーを
 守っているのだ

 そうこうしているうちに、マンションの近くの公園で鳴いている子猫が彼女のうちに転がりこむことになります。これがビーです。(ちなみにグーグーは♂でビーは♀)
 そして一人と二匹の日常が軽いタッチの線画で続けられます。サバについては『綿の国星』の時のようにちょっと擬人化した描き方がされますが、その他の猫についてはそれはありません。そのスケッチはラフですがリアルで、まさに「日常生活」となっているのがよく感じられます。
 ところが本書の終わり間際になって、大島さんが子宮筋腫と卵巣腫瘍の手術をするということになります。淡々とした筆致は、それが悪性のガンであったことさえ(そして描いた時点ではもう大丈夫だということも)さらりと描いてみせます。
 大島さんは自分が死んだらマンションをあげるから二匹の猫の面倒を見てもらうという遺言を書きます。ここらへんはよくわかるなあと思ってしまいました。一番の心残りと言えばそれがあって、その手配がちゃんとされるなら少しは気が楽になるというものですから。
 このマンガエッセイは月刊本の旅人で連載ということです。抑えた筆致は、連載を読む人たちへの余計な心配をかけまいとする心配りだったのでしょう。
 そしてどうにもこの本が好きになり、続刊も含めて三冊出ているということを知り、ありがたくお返しする本の他に自分のものとしてその三冊を注文しました。それが大体家を空けているあたりに到着していて、夕べもこれらの本を読み返しながら眠ったのでした。
(何と猫はまだまだ増える模様。そして新しい本の帯にはこのマンガが映画化され、今年の秋に公開されるということがうたわれています。小泉今日子主演だそうです。 →ニュース


 今朝は(と言えるのかわかりませんが)2時半に起きてしまって、そのまま起きてます。死んだうちの犬の介助をしている夢を見て、眠くなったら寝ようと思っているうちに明るくなってしまい、そろそろ出勤時間となってしまったのです。
 ちょっと歩くたびにぺたんと座り込んでしまい、その都度お漏らしをしてしまう犬の後ろをペットシーツを持ちながらついて回って、タイミングよくお尻の下にシーツを入れようとしたりしていました。夢の中では。下を濡らす度に情け無さそうな顔をしてこちらを見る犬に、大丈夫だよ、このぐらい仕方がないからと言って不安にさせないように声をかけている自分は、ちょうど二年ほど前の日常を生きていて、それで唐突に今に戻ってしまった感じでした。