応答みたいな独り言

 finalventさんのところの記事にコメントして、「誤解されているような印象を受けました」とレスを受けたのでそこだけちょっと書きます。
 別に批判という意味合いでもないですし、変にしつこくしないでおいたほうが…とも考えましたが、ちょっとすっきりしないなと思えたので勝手に独り言という形で*1


 こういう見方はナイーブ過ぎるっていわれてしまうかもしれないのですが、以下の教育再生懇談会の人たちがある一つの政治的勢力を形成しているとか、もしくはそういう政治的勢力に利用されているとか、そういう読みは私にはありませんでした。

教育再生懇談会 名簿


赤田英博 社団法人日本PTA全国協議会会長
安西祐一郎 慶応義塾
池田守男 株式会社資生堂相談役
小川正人 放送大学教授
木場弘子 キャスター、千葉大学特命教授
篠原文也 ジャーナリスト
菅原眞弓 東京都立川市立第九小学校教諭
田村哲夫 学校法人渋谷教育学園理事長
野依良治 独立行政法人理化学研究所理事長
若月秀夫 東京都品川区教育委員会教育長
官邸サイトより 構成員pdf)

 ここに挙げられている方々の言動をほとんど一人も知らないというのもありますが、最初から偏向を疑ってかからなくてもと思うほうでして、ですからfinalventさんが「問題の深層は、たとえば「そういうバカなことを言い出す勢力ってなんだよ」ということであり」と書かれていたのに少々驚いたというのがあります。


 もちろん内閣によって作られた諮問機関に何も政治的意図がないはずがない…と言われればそうかもしれないとはちょっと思いますが、「子供のケータイ使用の禁止を目指す政治勢力」というのがどうにもよくわからないです。単に古い感覚のおじちゃんおばちゃんが多いので、何となくケータイが悪者に見えたとか、ケータイを子供に持たせなければ単純に犯罪被害が減ると真面目に考えたとか*2そういうことじゃないかと感じていました。


 政治的偏向と言えば安倍内閣教育再生会議の時もしきりにそういうことが言われていましたね。でもそれがどうだったかとは別に、それこそ極右みたいにさんざん言われた安倍首相と媚中みたいに言われている福田首相の思惑が同じとはなかなか思えませんし、教育再生懇の影の政治勢力として目されているものがどんなものなのか今ひとつピンと来ないです。(安倍氏の時と同じように明確に何か言われているのでしょうか?)


 そしてもし似たようなケースでもっとはっきりと「政治的偏向」が疑われるようなグループであっても、それを表明するというか自分で言ってしまうのは「裏読み」であって「陰謀論めく」ので私自身にはそれなりのためらいがあります。
 (特に政治系の)ブログっていうのはそういうことを読み合うのを常とするものなのかもしれませんが、それが病膏肓で本当に陰謀論に行ってしまっているものが少なからずいると思われますし。真似たいとはちっとも思わないですね。
 で、finalventさんがネガコメファイブ云々で時々おっしゃるあれは、まさに仮想敵を探し回って相手の動機を憶測で決め付けて悪意を垂れ流すそういうタイプの人のことじゃないかなと(勝手に)思っていましたので、そういう行為自体についてもネガティブなんじゃないかなと感じていたところにあの文言でしたから、少しびっくりしてコメントを寄せたのでした。
 最近こういうの(=憶測の垂れ流し)はやめた方がいいよという記事を書いたばかりでもありましたので、少々脊髄反射だった面は否めませんが。まあそういうことだったのでした。

*1:これが届いても届かなくてもまあいいやぐらいのものです

*2:私がそう思うわけではないです

思考の省エネ

 精神自体の奥深い欲望…それは、親密性への欲求であり、明晰さへの本能的欲求である。ひとりの人間にとって世界を理解するとは、世界を人間的なものへと還元すること、世界に人間の印を刻みつけることだ。

 現実(リアリティ)を理解しようと努める精神は、現実を思考の言葉に還元しないかぎりは、みずから満足したとは思えない。
カミュ「不条理な論証」『シーシュポスの神話』新潮社、所収)

 ここに書かれているのは、人間は事物に出会ったときそれを(言語を用いて)自分が構成している意味世界に取り込もうとしてしまうものだということです。ほとんどそれは本能的ともいえるもので、「名付ける」ということの根源にもある欲求かもしれません。
 しかし時にその言語化は、妙に白々しいものとして人に感じられることにもなります。

 私は呟く、これは腰掛だ、と。それはいくらか、悪魔祓いをするような調子で言ったのだが、言葉は唇の上に残っており、その物の上まで降りることを拒否している。その物は依然あるがままの姿でいる。

 事物はそこに、醜悪で頑固な巨人のような姿でいる。それを腰掛けと呼ぶとか、あるいは何か別のことをそれについて言うとかするのは馬鹿気たことのようにみえる。
 私は名付けようもない「事物」のまん中にいる。たったひとり、合言葉もなく、防禦施設もなく、事物に囲まれている。下にも、うしろにも、上にも事物がある。事物はなにも要求しない。押しつけることもしない。ただそこにいるだけだ。

 私にはもう耐えられなかった。事物がこうも身近いことに我慢できなかった。
サルトル『嘔吐』人文書院

 ここには、知覚している対象を(言語を用いずに)そのまま認識することができないということを負担に思う気持ちが表現されています。先の「現実を思考の言葉に還元(して)満足する」ということの裏側に付きまとう問題と言えるでしょう。


 言語化しなければ不安になる。だけれどもその言語化の正当性は(本当は)与えられていない。
 おそらく背後にはこうした不安定さがあるのだと思います。


 その不安定さを敢えて無視するようにすればどうなるか? 多分人に「思考停止」と非難されてしまうような状態に陥るのではないでしょうか。
 つまり「思考停止」と言われるのが嫌ならばこの不安定さに立ち向かわなければならないということで、それは取りも直さず自分で構成している世界をどこか疑い続けるという辛い作業を引き受けることにつながると思われます。


 思考は楽をしたがる、と申しますかそれは省エネルギーを、そして安定を目指すところがあるようです。一つ一つの事物に新鮮な発見をしたり、それを万たび問い直してみたりするということは、自分を振り返ってみても大人になってから正直それほどできていないことです。
 それを他者に要求するのは難しいことだなと思うようになってから、あまり「思考停止」というきつい言葉は自分では使わないようにしているつもりです。


 せめて「先入主でものを言ったりしている」という指摘を受けたりすれば反省してみるとか、ラベリングして事足れりとしているのではと時折考えてみるとか、そのぐらいがせいぜいなのですがその程度でもなかなか大変なことですね。
 よくよく考えれば思考停止なんて簡単には人に言えなくなるはずです。さらにその言葉が「自分と同じ解釈をしない人は思考停止している」というような誤った言葉である可能性を思えばなおさらです。

ETV特集「安らかな最期を迎えるために」

 夕べの十時からのこの番組を見ました。サブタイトルが「尊厳死を考える」で、論点や番組での視点は以下の紹介文に尽くされていると思います。

 延命治療を中止することは許されるか。たとえば、回復の見込めない末期の患者から人工呼吸器を外す行為は「尊厳死」なのか「殺人」なのか。この問題は、日本の医療現場では長いあいだ「グレーゾーン」だった。実際には、患者や家族との「あうんの呼吸」で人工呼吸器を外すという医師もいる。

 しかし最近、医師の刑事責任が問われる事件が相次ぐ中で事態は大きく動き始めた。どのような場合に延命治療の中止が許されるのか、医師たちが「免責」される基準が必要となり、厚労省や学会などが終末期医療のガイドラインを発表。国会では、党派を超えた議員連盟が結成され、尊厳死法案を提出しようと準備を進めている。

 こうした生命倫理に関わる問題は、どの視点で考えるかによって(それだけで)相当意見が異なってきて、違う結論につながりかねないものです。たとえば番組のタイトルのように「安らかな最期を迎えるために」というような視点だと、通常は末期患者の視点から尊厳死容認といった具合の筋立てになるものが多いでしょう。この番組はいい意味で?その予想を裏切る作りになっていましたが。
 末期患者の立場なのか、医療関係者の立場なのか、末期患者の家族の立場なのか、あるいはそれとは違う(たとえば「尊厳死法案など可決されれば弱者切捨てで不本意な死に追い遣られる人がでる」のを危惧するとかの)立場なのか、等々で本当になかなか同意できる結論が形成し難いものです。
 尊厳死法案の是非などについてはいずれ書きたいと思っているのですが、とりあえず番組を見ながら考えていたことを。


 それはなにより、治療者としての医師に引導を渡す役を兼ねさせているのは見ていて辛すぎるということでした。それは医師にのみ過大な負担、ダブルバインドの状況を押し付けることになってはいないでしょうか。この意味では「免責の基準としての尊厳死のルール作り」が求められるのは理解できます。
 でもそれは根本的な問題解決にはならないだろうとも考えます。結局治療する医師側が死の決定に関与せざるを得ないという点は変わらないからです。
 少なくとも治療者は全力で治療する方向にむかい、治療停止を決断したり患者本人やその家族と意志をつき合わせ(ある意味)引導を渡す役は切り離すべきだと思いました。


 終末期医療の分野別のエキスパートの医師(少なくとも担当医の治療方針を理解し、延命の継続の是非が判断できる人)と、患者および患者家族の心理面でのケアができる専門家、それにできるならば選べる程度の宗教者や法律の専門家を加えたチームをつくり、医療機関側はこの独立したチームに終末期医療での延命中止などの決定をある程度委ねることができるというシステムは夢想にすぎるでしょうか。
 もちろん医療機関がその決定まで管理したい場合には呼ばずに自分で決めることも可能にします。でも訴訟になった場合もこのチームが引き受けるとなれば、多くの医療機関はここにお願いすると思うのですが。
 さらに言えば「引導を渡す」縁起の悪いチームにずっといたいと思う医師も少ないでしょうから、ここでの医師や他の専門家は固定的に考えるというよりは柔軟に(たとえば終末期医療の専門家がローテーションで加わるといったように)して、人間は皆死ぬものですといったことを患者や家族に伝える(ある意味)矢面には宗教者が立ち働いてもらうという具合で、そういうチームを必要な数だけ作るというのはどうだろうと番組を見ながら考えていました。


 ある時期まで患者の治療・回復のことをずっと考えてきて、そしてどこかで治療停止や引導を渡すことに切り替えなければならないということは終末期医療の現場に過大な負担となっていると思います。ですから、この部分を外化することによって治療者は余計なことを考えずに治療に専念できるようにしてあげたいと、そう思えたのです。


 かなり眠くて、最初だけちょっと見ようと思っていた番組だったのですが、何より一年ちょっと前に母が手術の後に入ったまさにその病院のその場のICUの映像が出たりして、後の方まで見てしまったのでした。


※重要な資料として:終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン厚生労働省・pdf)