思考の省エネ

 精神自体の奥深い欲望…それは、親密性への欲求であり、明晰さへの本能的欲求である。ひとりの人間にとって世界を理解するとは、世界を人間的なものへと還元すること、世界に人間の印を刻みつけることだ。

 現実(リアリティ)を理解しようと努める精神は、現実を思考の言葉に還元しないかぎりは、みずから満足したとは思えない。
カミュ「不条理な論証」『シーシュポスの神話』新潮社、所収)

 ここに書かれているのは、人間は事物に出会ったときそれを(言語を用いて)自分が構成している意味世界に取り込もうとしてしまうものだということです。ほとんどそれは本能的ともいえるもので、「名付ける」ということの根源にもある欲求かもしれません。
 しかし時にその言語化は、妙に白々しいものとして人に感じられることにもなります。

 私は呟く、これは腰掛だ、と。それはいくらか、悪魔祓いをするような調子で言ったのだが、言葉は唇の上に残っており、その物の上まで降りることを拒否している。その物は依然あるがままの姿でいる。

 事物はそこに、醜悪で頑固な巨人のような姿でいる。それを腰掛けと呼ぶとか、あるいは何か別のことをそれについて言うとかするのは馬鹿気たことのようにみえる。
 私は名付けようもない「事物」のまん中にいる。たったひとり、合言葉もなく、防禦施設もなく、事物に囲まれている。下にも、うしろにも、上にも事物がある。事物はなにも要求しない。押しつけることもしない。ただそこにいるだけだ。

 私にはもう耐えられなかった。事物がこうも身近いことに我慢できなかった。
サルトル『嘔吐』人文書院

 ここには、知覚している対象を(言語を用いずに)そのまま認識することができないということを負担に思う気持ちが表現されています。先の「現実を思考の言葉に還元(して)満足する」ということの裏側に付きまとう問題と言えるでしょう。


 言語化しなければ不安になる。だけれどもその言語化の正当性は(本当は)与えられていない。
 おそらく背後にはこうした不安定さがあるのだと思います。


 その不安定さを敢えて無視するようにすればどうなるか? 多分人に「思考停止」と非難されてしまうような状態に陥るのではないでしょうか。
 つまり「思考停止」と言われるのが嫌ならばこの不安定さに立ち向かわなければならないということで、それは取りも直さず自分で構成している世界をどこか疑い続けるという辛い作業を引き受けることにつながると思われます。


 思考は楽をしたがる、と申しますかそれは省エネルギーを、そして安定を目指すところがあるようです。一つ一つの事物に新鮮な発見をしたり、それを万たび問い直してみたりするということは、自分を振り返ってみても大人になってから正直それほどできていないことです。
 それを他者に要求するのは難しいことだなと思うようになってから、あまり「思考停止」というきつい言葉は自分では使わないようにしているつもりです。


 せめて「先入主でものを言ったりしている」という指摘を受けたりすれば反省してみるとか、ラベリングして事足れりとしているのではと時折考えてみるとか、そのぐらいがせいぜいなのですがその程度でもなかなか大変なことですね。
 よくよく考えれば思考停止なんて簡単には人に言えなくなるはずです。さらにその言葉が「自分と同じ解釈をしない人は思考停止している」というような誤った言葉である可能性を思えばなおさらです。