恒産無くして

無恒産而有恒心者、惟士爲能、若民、則無恒産、因無恒心、苟無恒心、放辟邪侈、無不爲已、及陷於罪、然後従而刑之、是罔民也、焉有仁人在位、罔民而可爲也
(『孟子』梁惠王上より)

 恒産無くして恒心有るは、ただ士のみよくするところを為す、若し民に則ち恒産無ければ、因りて恒心無し、
もしも恒心無ければ、放辟邪侈、為さざる無きのみ、罪に陥るに及んで、然る後によりてこれを刑すは、是れ
民を罔するものなり、いずくんぞ有仁の人位にありて、民を罔するを為すべきや*1

 ※放辟邪侈(ほうへきじゃし)…勝手気ままで、わがまま放題に悪い行為をすること
  す(ぼうす)…網を掛ける

 定職がなくても安定した心を持てるのは士大夫だけです。もし庶民に定職がなければ、それで安定した心が
無くなってしまいます。もし庶民に安定した心が無いならば、(彼らは)勝手気ままに悪いことをやり放題に
なってしまうだけでしょう。(そうして)罪を犯してからそれを処罰するというのは、民衆を網(罠)にかける
ようなものです。仁者の人が君主の位にいるならば、どうして民を網にかけるようなことができるでしょうか。

 ※士大夫…支配階層に属する知識人

 Baatarismさん@Baatarismの溜息通信「貧しさと通り魔」で次のように言われていました。

マスコミやネットでは非正規雇用に対する批判が大きいのですが、考えてみれば、この10年間で非正規雇用が拡大し、「就職氷河期」世代が安定した職に就けなかったのは、「失われた15年」と言われる長期のデフレ不況に企業が雇用コスト削減で対応したためでしょう。だから今度は長期不況によって日本社会が全体的に貧しくなった結果、通り魔事件が増加したと言えると思います。

 これに近いことは時々思いましたし、全面的な影響と言えるかどうかは難しいにしても「恒産無くして恒心無し」はかなりの数の格差社会論よりもストレートに状況を説明する部分が大きいのではないかといまだに思えています。
 ただし『孟子』の原文は士大夫ならば恒産が無くても恒心を持てるとするところから語り出されますし、何より大きくて悲惨な事件があったあとですから、後段の「為政者の心得」がとても胸を打ちます。

参考

 『孟子』の当該部分についてはネットでも採り上げられ考察されています。個人的には以下のあたりがとても面白いと思いました。
・鈴元仁氏の『孟子を読む』梁惠王章句上 七(その三)
 …こちらでは孟子の全文とご苦心の解釈を読むことができます。トップページはこちら
・朴斎雑志の大道廃れて仁義あり
 …中国古典文学者の大野氏のブログ記事です。こちらでは「トンデモ「研究」の見分け方・古代研究編」という興味深いサイトもやっておられました。

*1:書き下しでおかしいところがありましたらご指摘ください。大体勝手読みです。角川の『新字源』を参考にしております。書き下し文一部書き換え6/13

隠者とひきこもり

 「隠者」とは世を捨て隠れ棲む者であり「ひきこもり」概念と重なっています。にもかかわらず「ひきこもり」に専らネガティブなイメージしかないのは、社会的不適応にポジションを許さない近代社会のスタイルからくるものではないかと考えます。


 『荘子』の逍遥遊篇第一に一人の隠者、許由が出てくる話があります。伝説の五帝に挙げられる聖天子尭が、優れた後継者を捜したあげく箕山の隠者で人格高潔とされる許由に譲位を持ちかけるエピソードです。許由は言下に申し出を断ったとされるのですが、このエピソードに付随する伝説として、許由は「汚らわしいことを聞いたと頴水の流れで耳を洗った」というものがあり、これが『世説新語』(排調篇)の孫楚の言い間違い「石で口漱ぎ、流れを枕とする(漱石枕流)」につながってきています。(さらにそれが漱石ペンネームへと続くのです)
 他に有名な隠者としては、山の中で暮らし歳をとってから木の上に巣を作って眠ったとされる巣父などもいます。現世を離脱した浮世離れの隠者の話がいまも残っているのは、彼らに人気があったことの証でしょう。


 伯夷・叔斉の逸話*1など政治的で禁欲的な隠者像というのもありますが、そういう儒家に好まれそうな堅苦しいものには何かプロパガンダ風の印象も受けます。
 許由・巣父型の隠者像は、物質的には不遇でも精神的には解放された「楽しい隠遁生活」をおくるというものでして、その精神の自由志向、何者にも束縛されない自由奔放さというものが実際にはその境地まで至ることのできない多くの人々の憧憬を誘ったのではなかったでしょうか。


 近代社会が「その社会に適応すること」を求めるのは功利的にはまあ当然なのですが、適応せよ適応せよとむやみにプレッシャーを与えるばかりでは却ってその社会全体の安定性を損なうのではないかとも考えられます。冗長性といいますか無駄がないシステムは意外にもろいものです。また、高い合目的性というものは往々にして変化に対して柔軟な適応を阻害します。
 大所高所の話というのでもなく、基本的にあまりに効率的な社会・組織というものが息苦しいだろうということは容易に想像もできるわけで、ものぐさな私にはある程度ゆるゆるの社会システムが望ましく思えるという話でもあります。


 先日、岩手日報の「ニートに心身の問題 盛岡の支援団体調査(6/6)」という記事を拝見しました。ここにいわゆる「ニート」を若年無業者問題とし、それを何とかしようという支援団体の善意も見えると思うのですが、ちょっと性急に「ニート」と障碍を結び付けようとしているという感も否めません。問題視がやや行き過ぎているのではないかと感じられます。
 少なくとも医師の意見が出ていない段階で*2「(若年無業者の)多くに軽度の発達障害精神疾患があることが判明した。」と断定するのはいくら何でも勇み足過ぎるでしょう。


 社会が「隠者」などある種の無業者モデルを認めることができれば、案外それは人の「居場所」を増やす意味があるのではないでしょうか。隠者の基本は世を捨て・名利に拘らず・自由に生きるといったあたりにあります。日本では「出家」というあり方が、一時その(社会に認知された)「隠者」的モデルを担っていました。ただどうにも生臭さが消えない出家が多かった所為か、そこに理想を求める人はもはや稀です。

 無為を為し、無事を事とし、無味を味わえ (『老子』第六十三章)

 自由に生きることを選べるのが自由主義社会ならば、できればこの「自由のためにあえて適応しない」生き方にポジションを与える方向もどこかにあって欲しいなと何となく思われたのでした。

*1:武王が紂を討伐しようとした時「不孝」「不仁」であると批判し、思想的堅操を守るために山に籠り餓死した兄弟

*2:記事からはそう受け取れます。臨床心理士の所見はあるようですが