隠者とひきこもり

 「隠者」とは世を捨て隠れ棲む者であり「ひきこもり」概念と重なっています。にもかかわらず「ひきこもり」に専らネガティブなイメージしかないのは、社会的不適応にポジションを許さない近代社会のスタイルからくるものではないかと考えます。


 『荘子』の逍遥遊篇第一に一人の隠者、許由が出てくる話があります。伝説の五帝に挙げられる聖天子尭が、優れた後継者を捜したあげく箕山の隠者で人格高潔とされる許由に譲位を持ちかけるエピソードです。許由は言下に申し出を断ったとされるのですが、このエピソードに付随する伝説として、許由は「汚らわしいことを聞いたと頴水の流れで耳を洗った」というものがあり、これが『世説新語』(排調篇)の孫楚の言い間違い「石で口漱ぎ、流れを枕とする(漱石枕流)」につながってきています。(さらにそれが漱石ペンネームへと続くのです)
 他に有名な隠者としては、山の中で暮らし歳をとってから木の上に巣を作って眠ったとされる巣父などもいます。現世を離脱した浮世離れの隠者の話がいまも残っているのは、彼らに人気があったことの証でしょう。


 伯夷・叔斉の逸話*1など政治的で禁欲的な隠者像というのもありますが、そういう儒家に好まれそうな堅苦しいものには何かプロパガンダ風の印象も受けます。
 許由・巣父型の隠者像は、物質的には不遇でも精神的には解放された「楽しい隠遁生活」をおくるというものでして、その精神の自由志向、何者にも束縛されない自由奔放さというものが実際にはその境地まで至ることのできない多くの人々の憧憬を誘ったのではなかったでしょうか。


 近代社会が「その社会に適応すること」を求めるのは功利的にはまあ当然なのですが、適応せよ適応せよとむやみにプレッシャーを与えるばかりでは却ってその社会全体の安定性を損なうのではないかとも考えられます。冗長性といいますか無駄がないシステムは意外にもろいものです。また、高い合目的性というものは往々にして変化に対して柔軟な適応を阻害します。
 大所高所の話というのでもなく、基本的にあまりに効率的な社会・組織というものが息苦しいだろうということは容易に想像もできるわけで、ものぐさな私にはある程度ゆるゆるの社会システムが望ましく思えるという話でもあります。


 先日、岩手日報の「ニートに心身の問題 盛岡の支援団体調査(6/6)」という記事を拝見しました。ここにいわゆる「ニート」を若年無業者問題とし、それを何とかしようという支援団体の善意も見えると思うのですが、ちょっと性急に「ニート」と障碍を結び付けようとしているという感も否めません。問題視がやや行き過ぎているのではないかと感じられます。
 少なくとも医師の意見が出ていない段階で*2「(若年無業者の)多くに軽度の発達障害精神疾患があることが判明した。」と断定するのはいくら何でも勇み足過ぎるでしょう。


 社会が「隠者」などある種の無業者モデルを認めることができれば、案外それは人の「居場所」を増やす意味があるのではないでしょうか。隠者の基本は世を捨て・名利に拘らず・自由に生きるといったあたりにあります。日本では「出家」というあり方が、一時その(社会に認知された)「隠者」的モデルを担っていました。ただどうにも生臭さが消えない出家が多かった所為か、そこに理想を求める人はもはや稀です。

 無為を為し、無事を事とし、無味を味わえ (『老子』第六十三章)

 自由に生きることを選べるのが自由主義社会ならば、できればこの「自由のためにあえて適応しない」生き方にポジションを与える方向もどこかにあって欲しいなと何となく思われたのでした。

*1:武王が紂を討伐しようとした時「不孝」「不仁」であると批判し、思想的堅操を守るために山に籠り餓死した兄弟

*2:記事からはそう受け取れます。臨床心理士の所見はあるようですが