つばめ危機一髪

 ガレージに車を入れて降りてみたら、車の鼻先に灰色の小さな雛が一羽。近づくとばたばたもがいて、十数センチなんとか動く感じ。ああこれは玄関先の巣から落ちて、じたばたしているうちに数メートル先のガレージのところまで来たんだと直感。
 これ絶対車の車輪の間を抜けたなと思えるところにいて、幸運にも轢かずに済んだようです。


 巣に返してやらなければ死ぬだけでしょう。カラスもときどき見かけます。
 でも先日の『夏目友人帳』で、人の匂いのついた雛が巣に戻されても仲間はずれで死んでしまうという筋立てを見たばかりでしたので、(真偽はともかく)うかつに触って匂いをつけられないなと手を一度引っ込めました。
 とりあえずちりとりの上に箒で静かにかき入れます。親らしいツバメが頭上を飛んでいます。二段の踏み台を持ち出して、上に乗り、ちりとりを巣に近づけますがちょっと届きません。
 どうしたものかとちょっと考え、これは炭ばさみだと思いつき、物置からそれを出してきてそっと(できるだけ柔らかく)挟んで台の上から伸び上がって巣の中へ入れました。
 何とか巣には戻せたのですが、ちょっと大きくなってきた雛が5羽ではこの巣は狭いのでしょう。自分で落ちたか兄弟に押し出されたか、このまま巣立ちまで無事に巣に入っていられるでしょうか…


 一応ほっとしてPCの前に座り、これを書き始めた頃にものすごい夕立です。いろんな意味でぎりぎりだったようです。明日の朝にまた落ちていないか確認してみます。でも何度も落ちて弱るようでしたら、それはもう寿命というものなのかもしれません。ちょっと複雑な気分です。うちの軒先に巣をかけたということで他生の縁はあったものと思いますが、どこまで介入してよいものやら悩みどころでもありますね。

大野病院事件

 私たちには「外からやってくるもの」におかされる病変イメージが強く、老いて死ぬ以外の死については何らかの外在因を考えてしまうようになっているのかもしれません。
 この事件で亡くなられた産婦の方のご遺族も何がしかの原因を「外に」求めてしまっていて、それが「医療ミス」の疑いというところに固着して離れなくなっていたのではないかという印象です。どこか外部に拠る原因がなければ死なずに済んだ(はず)という信憑が強かったのではないでしょうか。
 死や病の原因を外に求めるのも、その一環で医療ミスを疑うのも、それ自体としては別に責められるような手段ではありません。それを考えるのも一つの道理です。ただしそこに固着してしまうことは、およそ片目をつむって運転するように危なっかしいことに思われます。


 死を悼み、もっともっと長生きして欲しかったと思うのは人情ではありますが、もとより永遠に生きられる人間などどこにもいるはずもなく、死はミクロな細胞死からマクロな個体死に至るまで内在的にもプログラムされているというのは周知のことではないかと思います。
 生の薄皮一枚の向こうに死はいつも存在しているということを意識するのは難しいことなのかもしれませんが、あまりに死を遠ざけようとそればかりに躍起になる風潮というのはどうかなと感じます。(健康ブームにしても、メタボ云々や禁煙運動にしても、その動きの幾分かはこの「死を遠ざけたい」意識の働きかなと見えてもいます)


 そして出産にしても、ちょっと前まではわが国でも死の影がさすような大事であって、いまだに決して安全なものと認識されていない多くの国があることを考えてみれば、あまり当たり前に「病気ではない」と「死なないはずだ」と楽観的に信ずるのも本当は危ういことなのかもしれません。
 うちの妹が5月に二人目を出産しましたが、二度目の時は前置胎盤であると言われ、さらに予定日を過ぎて三週間も陣痛がないという不測の事態が起きていました。幸い結果オーライではあったのですが、一人目が問題なかったようであっても、次もまた簡単だと思うことはできないものだと縁者一同は思わされたのでした。
 またこれは先月になってからですが、うちの母が下腹部に激痛を感じ、嘔吐するということがありました。最初の見立ては便秘が原因ではないかということでしたが、結局尿路結石であるということが判明。そして母に何かアドバイスできないかと自分で調べた過程で、尿路結石の7〜8割は原因がよくわからないものであることも知りました。対処法は確立しているにせよ、現代医学もまた限界というものをその時々に持っているということをあらためて感じさせられた一件です。


 傍で第三者として見ている分にはなかなかわかり得ないこともあるとは思います。それでも今回のケースは、私たちが何を意識し、何を意識せずに生きているのかということを少し考えさせてくれたものではなかったかと思います。
 ご遺族には死は非常に残念なことではありましたが「どんなちゃんとしたうちにも事故は起きる」わけですから、どうかもう一方の目も開かれて、ご自分たちの人生と今回の出来事とのとの折り合いをつけていかれるようになればと願います。