思うこと
⇒「命なくして共生なし」(地を這う難破船)
わたしが「ひとことだけ」を書いたのは、michiakiさんを擁護する目的だとかエホバの証人の立場を代弁するとかいった気持ちで、じゃないんですよ。
もし目の前に「死にたがっている人」がいれば私は躊躇無く止めるでしょう。それは自分に染みついた倫理観です。ただしその理路が死にたいと言っている人に通じるとも必ずしも思えません。
「あなたにはわからない!」と言われれば、わかりませんと答えるしかないかもしれません。でもそれでも止めるのですが。わかるかわからないかという次元ではなくそれを止めようとする気持ち、おそらくそこのところはsk-44さんと私は共有しているかもしれないのですが、それは一つの倫理という以上の意味は無いかもしれないと私は考えるのです。
当たり前と思われているところに一石を投じて、その当たり前の根っ子を揺るがすのが「丘の上の狂人」、すなわち哲学者の存在意義であるとしたら、michiakiさんの今回の記事はまさにそうした哲学的な問いかけになっていたであろうと思います。
sk-44さんはmichiakiさんに「資格無し」とされました。私はこれは資格問題ではないと思います。資格などを問うのならば、当事者以外に口を出すなというのも同然と考えるからです。それは一つの考え方ではありますが、私たちはそれでもたぶん口を出す者なのです。
全く理解し難いような理で動く人がいたとして、その「他者」とどう関わるかというのが究極の倫理的問題であろうと思います。
衆寡の問題ではなく、それに対して「自分の従前の倫理を枉げない」か「自分の倫理を疑う」か、それが突きつけられるものなのです。
私は依然として「倫理とは個人の個人性が要求する概念であり行為」だという言葉には釈然とできないでいます。私が今の時代にこの社会に生まれていなければ、sk-44さんがおっしゃる共生の倫理というものに少しでも共感できていたか…それはわからないと思ってしまうからなんですね。
おそらく私たちは一瞬一瞬自分たちの倫理に賭けているんです。そしてもしその判断、自己投機のことを安易に忘れてしまっているとしたら、それは誰かに思い起こさせてもらわなければちゃんとした倫理にならないんです。そういう意味でmichiakiさんのエントリは「他者」として私に(そして多くの人に)働きかけてきたと思いますし、その意味で私は評価できるのです。言いたいのはそれだけなんですよ。
お付き合いいただいてありがとうございます。
天国の処女(妻)
⇒ニートのあした「エクスタシーのない占拠なんて。。。ルーだいの友へ」
テロリストたちが何にこんなにも高いモチベーションを与えられているかということについては、みんな聞いたことがあるよね。天国には72人の処女が待っていると聞かされてるからっていう話だ。そういうテロリストにとっては、それはとても楽しみなことだろう。
(間)
そこにいる処女たちにとっては、天国ってのは思ってたようなところとはちょっと違うんじゃないだろうか? 俺が子どもで、こんなことを言われたらいやだな。
「良い女の子になりなさい。いつもブルカをかぶり、いつもベールを身に着けなきゃいけないぞ。学校には行かせない。就職はさせない。読み書きは学ばせない。投票はさせない。車は運転させない。歌うのも、踊るのも、ゲームをするのも、音楽を聴くのもダメだ。お前は完全な屈従と禁欲の一生をおくるのだ。そして死を迎えたら、天国に行くだろう??(間)そこでお前はテロリストのための性奴隷となるんだ」
いや、もしここで言われているのがイスラームのことだとするなら、これはまるっきり勘違いですね。
これ(先頭に立つ一群の人々)こそ(玉座の)おそば近くに召され…
…金糸まばゆい臥牀(ねだい)の上に、向い合わせでゆったりと手足伸ばせば、
永遠の若さを享けた(お小姓たち)がお酌に廻る。
手に手に高杯、水差し、汲みたての盃ささげて。
この(酒は)いくら飲んでも頭がいたんだり、酔って性根を失くしたりせぬ(天国の酒は現世の酒のごとき粗悪品ではない)。
そのうえ果物は好みにまかせ、鳥の肉など望み次第。
目(まなこ)すずしい処女妻は、そっと隠れた真珠さながら。
これもみな己が(善)行の報い。
もうそこではくだらない馬鹿話も罪つくりな話も聞かないですむ。
次に右組の人々、これはどうかと言うに、
刺なしの灌木と
下から上までぎっしり実のなったタルフの木の間に(住んで)、
長々と伸びた木蔭に、
流れてやまぬ水の間に、
豊富な果物が
絶えることなく、取り放題。
一段高い臥牀があって(そこで天上の処女妻たちと歓をまじえる)。
我ら(アッラー)が特に新しく創っておいたもの、この女たちは(地上の女のように両親から生まれたものでなく、この目的のために特別に新しく創った女である)。
特に作った処女ばかり。
愛情こまやかに、年齢も頃合い。
右組の連中の相方となる。
(井筒俊彦訳『コーラン(下)』岩波文庫、pp.168-169。「五六 恐ろしい出来事 −メッカ啓示、全九六節−」 強調は引用者)
天国の処女妻は神によって新たに創造された存在ですから。
蛇足ですが、こういう妙な記述でムスリム社会に対する偏見が助長されるということは望ましくないと思います。
ひとことだけ
⇒地を這う難破船「魂と権利の落としどころ」
「資格がない」のは、信仰問題をアプリオリな自由意志の問題へと還元しているからです。論理的にエラーしているという話。論理的なエラーにおいて選択されるのが倫理で、倫理とは個人の個人性が要求する概念であり行為です。みちアキさんは個人の個人性を掲げるために、1歳児や妊娠4ヶ月の胎児の生命を犠牲にする議論を「故意に」展開している。
sk-44さんとmichiakiさんのやり取りには局外者でいるつもりなのですが、この引用部分妙に引っかかりました。
倫理という言葉が「倫(とも)の理(ことわり)」である以上、それは個人が弧在しているだけの場面には出てこない概念だと考えます。倫理が問題となるのは他者が存在するところです。
つまりそれは、ある集団的な「理」に対してある個人(やグループ)がどう関わるかが問われる時であって、その時その集団に対して個人は他者となり、その個人(やグループ)にとってある集団も他者となっているといえるのではないかと思うのです。
無条件に理解できない。あるいは何を考えているかわからない。そういう「他者」と対峙し合うのが、倫理が問題となる時なのではないでしょうか。
「倫理とは個人の個人性が要求する概念であり行為」とは、その決断性を言われているのかとも少し思えましたし、あるいは、皆同じことを考えているといった場合ではそこに倫理があったとしても倫理の問題は出てこないといった感じのことをおっしゃっているのか…、とも考えてみたのですが何となくひっかかります。
また「信仰」は独自の論理を持っていますので、世俗の解釈・論理と異なっていたとしてもそれを「論理的エラー」とは言えないと考えます。
エホバの証人の倫理問題は、通常の倫理と異なった「理」を持ったグループと社会との間の他者問題であろうと思います。michiakiさんのように「他者の信念」としてそれを尊重するという姿勢も、一つの立場ではあるでしょう。ただし輸血問題に限って言いますと、そこに信仰主体としての大人ではない「子供」が絡んできているがゆえに、単純に愚行でも何でも許容すればよい…とはいかない難しさがあるのだと思います。
マジョリティの「理」が一つの権利を主張するとき、その理は省みられなくても良いのか、ということに対しての問題提起になっていると私は受け取りました*1。ですから、これ以上口を挟むことは考えていませんが、michiakiさんの言葉は「テキトーな思考実験」とは私は思いません。(そしてこれはsk-44さんらしくない、と勝手に思ってしまったのですが、トンデモという言葉を最後のあたりで投げ掛けたのは、マジョリティの理は当然過ぎて疑う必要もない…と言っているようにも聞こえてしまったのでした)
*1:それがmichiakiさんの本意だったかどうかには関係なく、です