最近の投稿の備忘

その一

 (略)靖国神社問題と称されているものにつきましては考えがございまして、少し書かせていただきます。…私は「靖国神社」に問題点を見つける立場がおかしいと思っており、この問題全部がおかしなところの議論に終始していると考えております。


 理由は、靖国神社は一つの宗教法人にすぎないということ。これに尽きます。


 靖国が国家護持のような形になればもちろん憲法違反等の批判を免れないでしょうが、現実にはなっていない。首相や閣僚が行っているではないかと言う声が聞こえてきそうですが、彼らにどういう意図を感じるかなどということは主観の範疇です。


 首相や閣僚、与党政府が靖国の国家護持をたくらんでいるとか、はたまた戦前回帰・軍国主義復活をもくろんでいるとか、そういうことを考えた方がいらっしゃった(あるいは今もいる)かもしれませんが、それは個人的(もしくはある種集団的)な意見・感想であって、現実のものではないと思っております。


 現況ではあくまでも靖国神社は一宗教法人です。そして憲法で思想・信条の自由が言われている限り、それを個人的に誰が参拝しようが不都合はないでしょう。(もちろん公費をどんどん使い始めれば問題ですし、そこらへんの批判やチェックは必要ですが)


 一宗教法人とその信者たちが、自分たちの信仰として何かをやるのに問題点をみつけて騒ぐのは愚の骨頂ではないでしょうか?オウム真理教のような反社会的行動でもあるならともかく…。


 そういう見方で見れば、外国政府が他国の宗教法人の一つに対して「何々を祀るのはだめだ」とか祭祀上のことに口を挟もうとするのはもともと馬鹿げたこととしか見えません。(これは国内の個人が難癖をつけるような行為でも一緒です)


 あくまで問題点があるとすれば「国家護持」になるようなことがあればいけない、ということであって、そんな法案でも上程されれば反対しますがね。


 柳の下の幽霊と申しますか(どちらかというと坊主憎けりゃ?)仮定に想像を加味した問題の立て方で、どこかの火が燃えてるような気がします。


 ちなみに我が家では近い親戚も含めてたまたま一人も戦争に出てもいませんし、靖国神社は関係ありません。賛成も反対も普通はないのです。そういう問題なのではないでしょうか。

その二

 (略)これは感情論ではございません。法的にもまさにそれ以外の結論がでようはずはないと存じます。


 祭祀の当体が国(もしくはその機関)であれば(他国に対する)「説明責任」は生じると思います(それについては異議ございません)。


 しかしまさに靖国神社が国家護持されているわけではない、というその一点だけで、日本政府が責任も義務も負うことにはならないということをおわかりいただけませんか?
 逆にですよ、日本政府が靖国神社に対して何らかの責任があるとすれば、それこそまさしく宗教の国家管理を是認することにもなりかねないんですよ…


 外国政府の要請で、ということを抜きにして考えても、何ら反社会的行動をとっていない一宗教法人(法人ですらなくても同じですが)に対して、国がああせいこうせいと祭祀に口を挟むほうが大問題である、という感覚はわかっていただきたく思います。


 私には入り口が間違っているから迷走した議論が諸所で起きるようにしか見えません。東京裁判の再評価などの必要性もあるやもしれませんが、それを靖国という文脈で行うのはおかしいのです。


 戦犯とされた方々であろうが、鬼畜な行為を行った人でなしの方々であろうが、それを祀ろうとすることに他者が文句をつけるのは明らかに内面の自由を損なうことになります。

 
 私には靖国問題を語るメディアやら諸外国の感情論に日本(政府)が巻き込まれるのはおかしいとしか思えません。もしそれが淫祀邪教ならば放っておけば立ち消えます。何らかの負の行為を実際に行ったのならその時点で法に照らして叩けばよいのです。*1

その三

 (略)いくつかの御意見で「戦死者の顕彰」ということが語られました。それを大事に考えられるお気持ちはわかります。他国の例などからも、このレベルでは宗教行為にあたらないかもしれません。アメリカのアーリントン国立墓地、J.F.Kを始め26万人以上の方々が眠られているあの墓所。有資格者でも入れるのも入れないのも自由。またあらゆる宗教宗派、無宗教にも応じるあのようなものを一つの理想形にされているのかなとも愚考いたします。


 しかし戦死者の顕彰を考えることは、靖国神社を(変えようと)考えることとは異なる次元のことではないでしょうか。


 靖国は今現在一つの宗教のかたちとしてあります。国のために亡くなったとされる方を祭神と捉えることを軸にした、神道から派生した独特な信仰に支えられてあるものです。神道とうけとめることも、伝統的な神道とは異なるものとうけとめることもできましょう。
 それを変えさせようと考えるのは誤りです。内部の者ならいざ知らず、外部にある者としてはそのまま受け入れるか、あるいは縁なきものとかかわらずにいるか、どちらかしか選ぶ術のないものにしか思えません。


 靖国神社墓所ではありません。中途半端な報道で勘違いした中韓の人たちならばともかく、身近に住まう者としてははっきり捉えておくべきです。あそこには神はいてもホトケ(亡くなった方)はいないのです。
 靖国を受け入れる方々にとっては、そこに神となった父祖がおられるとうけとめることもできるでしょう。でも関わり無き者にとっては縁無き信仰です。ちょうど、キリシタンにとって踏み絵を踏むことは信仰に関わって非常にためらわれることであったのに対し、そうでないものにとっては単なる銅版を踏むことでしかなかったのと同様ではないでしょうか。

(中略)

 戦死者の顕彰を必要だと思ったとしても、あの形で良いと靖国を受け入れるか、別の形のものを考え、周囲や最終的には国を動かすことを図るか、個人としてはどちらかの選択だろうと思います。そして少なくとも勘違いした他国の人には言ってやるべきです。日本では憲法で「信教の自由は,何人に対してもこれを保障する」のですから、それに対して圧力をかける(かけさせようとする)のはおやめなさいと。

あえて…

 コメントを寄せさせていただいた先は取りあえず伏せて、挨拶などのやり取りも抜いて再掲します*2。まだ日記ははじめたばかりで内容もそうありません。今のところは積極的に自分からつないでいくのは控えておこうと考えていますので。(まだ一ヶ月も経ってませんし…)

*1:私が一度訪れた時の感じ、また参拝者の方とお話してみた限りでは靖国神社が特におかしいとか何とかいう気配は全くありませんでした。もちろん

*2:コメントを書かせていただく際のハンドルもちょっと別のものを使っています。たいした意味はなく、uumin3のハンドルを復活させる前でしたので別名になった次第。それでも別名で少々お付き合いが始まっていますので、しばらくこのままでいこうかなとも思っています。