靖国問題の基礎知識5

Q 神道シャーマニズムなの?


 なぜか呉善花氏の著作などではしきりに神道をシャマニズムと呼ぶ記述がされていますが、これは正しくありません。むしろよく言われたのは、神道アニミズムであるという言説です。でも私はどちらの見方もしない方がよいと思います。シャーマニズムは、シャーマンと呼ばれるような人が、身体を魂として離脱し、天上世界他の経験を持って身体に戻り、その知見を社会に役立てるという形の信仰を指します。韓国のムーダン(巫女)とか日本の拝み屋さんのように、霊が憑依する形のシャーマニズムもあります。神話においては一部に、神功皇后のそれのような憑依の記述がありますが、それが神道の神事の主流であったことはないと考えます。むしろ「万物に霊が宿っていると考える」アニミズムに結構近いのは確かです。


 ただし、アニミズムにしろシャーマニズムにしろ、原始宗教から宗教が段階的に進化していって、最終的には一神教にたどり着くという「西洋中心主義」的な前世紀の宗教観によって考え出された「宗教形態の類型」なので、まったくそれにあわせて考えることなど不要なのです。宗教に原始的も進歩的もないと私は思います。



Q あなたは国家神道に反対なの?


A 私は、国家神道は「一神教」的でもともとの日本の文化にそぐわないと考えています。また「復古神道」というものが、日本人のある意味いい加減な信仰の姿(たとえば神仏習合)を歪めてしまう向きがあったのにも批判的です。いずれにせよ国家神道は普通の人々にとって窮屈なもので、天皇の名を借りて統治する為政者の側に都合のよいものだったと私は思います。


Q 一神教的ってどういう意味で使っているのですか?


A もともとの神道も、あるいは土着化した仏教も、様々な神(的存在)の共存を許す多神教的な寛容なものでした。この寛容さは、どんどん神の数が増えるなど「節操の無さ」としても考えられますが、逆に「宗教的対立」を最低限に押さえることのできる「知恵」だったとも思えます。こうした古来の日本の文化風土が私は好きです。
 国家神道では「現人神」(あらひとがみ)が存在し、それによって実質的な一神教として機能していた面があると思うのです。


 天皇は政治制度的にも元首であり、絶対君主としての権能も(名目上)もたされましたが、同時に明治期の為政者によって神そのものの権威も付与されました(→現人神)。
 この天皇制が通常の絶対君主と違う点は、国家神道があったという点です。これがあったおかげで、実質的に日本国民全員が天皇・現人神の信者とされ、政治的のみならず精神的にも天皇がこれを率いるという形式が成立していたのです。


 このように精神的価値と政治的権力が天皇に集中された結果、倫理と権力、公と私が完全に融合し、権力は倫理をかさに着、倫理は権力に後おしされて磐石の支配権が登場することになるのです。さらにそこに国民が天皇の体制を「翼賛する」とか、天皇の親政を「補弼する」という形式が付加され、国民の主体的活動がすべてこの形式に流入するようにされました。こうして国民は「天皇への反逆者にならない限り」、その主体的活動を行なえるようになったのです。そしてそれは原則的には、天皇以外であれば、どんな地位にも、だれもが昇りうるということも意味したのです。


 一君の下に万民が平等であるというこのシステムは、明治期の「弱小国日本」が国力をつけ、発展していくために必要であったものでしょう。立憲君主国の民主主義としては、うまく機能する可能性を十分に持っていたと考えます。力技で急速な発展を望む場合には、ロシアの啓蒙専制君主や韓国の開発独裁の例を考えても、ある程度強権的なシステムが必要だったからです。しかしそれが現代に似つかわしいものかは疑問です。




Q 現人神(あらひとがみ)ってどういうものですか?


A まずかなり昔の姿としては人の形で神が現われることを指しました。例えば、福岡県筑紫郡那珂川町には「現人神社」というものがあります。この神社の伝承として、「本来は姿を現さない神(住吉三神)が、神功皇后三韓に向かうときに、姿を現して軍船を導いたので現人神といい、皇后はここを訪れ、神田に水をひく為に山田の一の井堰を造り、裂田の溝を掘り通水した」と伝えられるものがあります。


 次に、直接神が人間に降りて、その生身の人間が「御神体」として崇められるというものがあります。有名な例は諏訪明神です。諏訪明神が自分の体として選んだ男児は「大祝」(おおほうり)と呼ばれ、諏訪社の現人神として君臨することになっていました。ここには「大祝ヲ以テ御体ト為ス事」という言葉が伝わっています。また、それはいつか世襲のものともなりました。その一つが神(みわ)氏です。神氏は諏訪神社上社大祝家で、神の直系の現人神として氏人を支配しました。その家系は「諏方家」としてつづいています。この大祝職は明治維新を境に廃止させられました。


 次に国家神道での現人神です。高天原から天孫が降臨し、それが天皇家の始祖となったという神話を元に、今上(きんじょう)天皇がそのまま「神」であるとするのがこの現人神です。
 天皇を神にまで祭り上げることにより、天皇の支配権威がシンボル化しやすくなります、そして名目上の天皇の機能を実際の為政者が行使できるようになるわけです。
 このシステムでは政治上の失敗や間違いが直接天皇の責任にならずに、翼賛、補弼した国民の責任になるようにもされていますので、天皇は無謬(まちがいのないこと)のままでいられますし、どんな失敗があっても権力システムは温存される訳です*1
 天皇は、国民に対しては政治的権力と精神権威の両方の絶対的権威でしたが、側近や周囲の補弼機関からみれば、その権威は名目的なものであり、その権力は担当機関が分割し、代行していたのがこのシステムなのです。


 為政者は天皇の名のもとに、一方で法律を制定し、他方で教育に関する勅語、精神作用に関する勅書などを発布しました。国民は、外面的行動において法律を守ることを命ぜられ、同時に内面的意識において勅語や勅書にしたがうことを求められました。
 このシステムがある程度うまく機能しているうちは、人々の不満もそれほど大きくなるものではなかったと思います。もちろん社会に矛盾点がなかったわけではないですし、貧困や言論の制限なども存在したでしょう。
 しかし現実的には、多数の一般の人にとって耐えられない社会とは取られていなかったはず。戦争が激化するまではまがりなりにも議会制民主主義は機能していたわけですし、その支配は(根っこのところで強権的ではあったとしても)緩やかなものだったと…。


 残念ながら、神国日本、神州不滅、決して滅びない国などというのはあくまでもシステム上のフィクションでした。そして結果としては勝ち目のない対外戦争まで続く道を誰も止めることができなかったのです。最後の15年だけでも300万人を越す日本人の命が失われ、特に沖縄で行われた激しい地上戦では、戦闘員よりも遙かに多い一般住民が命を失うことになってしまったのは事実です。
 結局このシステムも、時代の要請したものだったということなのでしょう。

 私は「復古神道」を懐かしむ人たちよりさらに復古的です。思いは国家神道以前の日本へ回帰し、先の大戦での被害がなかった「あり得べき日本」を夢想しているだけなのかも…。

*1:終戦交渉の前後で「国体の護持」に拘った人たちが、本当に天皇を敬愛する気持ちだけでそれを主張したのかどうか、実は私は疑いを持っています。自分たちの権力システムを温存したかっただけなのではないかとつい邪推してしまうからです