世界を駆ける日本料理

 NHKの土曜特集「世界を駆ける日本料理」は予想よりもおもしろい番組でした。どこが面白いのか、番組を見ながらふと頭に浮かんだのは、これが哲学的番組だということです。


 料理番組はたいてい興味を持って拝見しますし、素晴らしくおいしそうな料理の数々を見るだけで(本当は匂いを嗅いだり食べたりしたいのですが)唾が湧くような「景色」で満足してしまいます。薬味で職人さんの工夫とか、それこそ隠し味でドラマがちょっぴりぐらいあればそれで文句もないのです。
 ただ少々味付けが濃いといいますか、脇を強くし過ぎ、くどい感じに飾り過ぎの料理番組もちょっと多くなってきたなという印象を持っています。この番組も期待半分ではありましたが、ちょっと失望してもいいかなぐらいにあらかじめ思っておいていました。


 見始めてまず「鮨」って何だろうと考えはじめました。そして「和食」って何だろうと思わされました。さらには文化って何かとか、文化接触した時の相互影響についてとか…とにかくそういったことが頭に浮かぶのです。


 「すし」は何を以ってすしというのか。琵琶湖の鮒鮨のような熟れ鮨が確か最初期の形だと聞いたことがあります。魚を発酵させて保存を良くし、副産物としての風味を楽しむというものです。ちょっと私には鮒鮨はきついかなと思った覚えがあります。同様の熟れ鮨として秋田のハタハタ鮨がありますが、これをあぶってちょっと焦げ目がついたぐらいのものは大好きです。
 もちろん現在のイメージの主流は握り鮨でしょう。握り鮨のもともとが形を残しているのがアナゴの煮詰とかサヨリの酢じめとかそういった類の「仕事をした」鮨であるということも伺ったことはあります。素材に手を掛け、ここでも保存性とそれに伴う風味の変化が楽しめるんですね。
 ただし江戸時代の最初の握り鮨は酢飯でなかったとか…。
 それならば現在主流の握りなどは、発酵させた魚から細工した魚へ、そして生魚へ、ご飯なしからご飯付きへ、さらには酢飯へという具合にかなり変遷してきているわけで、さらには今アメリカで人気のロール(巻物)まで到達しますと、最初のものとは全く違うのでは…
 そんなことを考えて見ていました。おそらくは「酸っぱさ」が一つの鍵なのでしょうが。


 そこでふと思った哲学的という形容は、自分たちが当たり前だとおもっている考えを揺さぶり、そしてもう一度考えさせるという働きに対してのものです。それが哲学でしょうから。
 多分そういう意図はこの番組には企画からあまりなかったような気もします。巧まざる素材の良さが、勝手にそういう深読みすら視聴者に引き起こしたぐらいのものかと。
 もちろん今日の番組ですら演出過剰に思えた方もいらっしゃるでしょう。ただ私にはそれが妙に琴線を揺さぶるように働いたということだけなのかもしれません。私個人の感想としては、非常に面白いものでした。


 ただ、なぜ瓢亭の名前を出さずに京都の高級料亭とぼかしていたのか気になりました。プロジェクトXのように会社名などを出しても、今回の番組を見て宣伝だとか思う人も少なかろうに、と思ったのですが…