儒教あれこれ その4

理と気あれこれ

 朱熹は「理」と「気」という2つの基本的なカテゴリーの上に作られた二元論の哲学を唱えます。形而上の「理」と形而下の「気」は全く異なるものながら、互いに単独で存在できない不即不離のものであると。そして「理」が人の本質・本性であり(性即理説)、道徳の実践は外から与えられるものではなく人間自身がするものだと規定し、知識を得るだけではなく道徳も身につけていくことも重要である(車の両輪のような物だ)と唱えます。
 と書いてはみましたが理をどう捉えるか、気とは何なのか、儒学者によって差異があり複雑です。私にしてもささやかな自分なりの理解しかありません。わかったようなわからないような、少なくとも他人様に説明できるとも思えません。


 そこで抽象的な議論はさておいて、現代韓国でこの理などがどう理解され(もしくは感受され)、どういう行動で現れているかを説明している書籍から少々ご紹介します。


 小倉紀蔵『韓国は一個の哲学である』講談社現代新書、から要約して引きます

 オリジン、ルーツは韓国語で<プリ=根>と言う。<プリ>を持つ者こそが、尊敬に値するものである。なぜなら<プリ>とは<理>の根源であるからだ。日本の<プリ>は韓国である。なぜなら日本にすべての良き文化を伝達してやったのは韓国だからだ。ゆえにすべからく日本人は韓国人を尊敬すべきなのに、逆に韓国を冒涜している。これが韓国人の<プリ>への<ハン=恨>であり、大きな傷なのだ。
 もともと韓国は日本より<理>が明澄であり、上位の国である。だとすればすべての<プリ>は本来韓国の側になければならない。
 空手・禅・醤油などが、そのまま日本語(日本のもの)として世界に通用するのは理不尽である。したがって例えばなどは<ソン>という韓国語として世界に認識させねばならない。悪い日本の歴史宣伝をすべてひっくり返すのは、韓国の義務であり願いである。
 また、歴史的に韓国にすべてを負っている日本が、世界に歴史で名を売っているのは、韓国を蔑ろにする歴史宣伝である。したがって日本の高級文化などは、みな韓国から行ったものであることを世界に再認識させねばならない。
 このオリジン奪取闘争に勝ち、「日本人の自尊心を叩き潰して」やらなければならないのだ。さもなければ韓国人の「文化自尊心」は傷ついてしまう。「近代化の失敗」に続く第二の大きな敗北として…


 小倉さんは大体こういったところをおっしゃられています。これを見る限り、なぜ韓国の人たちが歴史理解に弱みがあっても自信満々なのか、日本の文化を自分たちの起源と言ってはばからないのか、そこらへんの説明がわかるような気になりますね。議論が積み重ねにならず、転倒している理由を朱子学の影響に求められているものです。


 私自身は韓国に行ったことがありませんし、内容がちょっと日本に来ている本国人には聞き辛いものを含んでいますので、最終的な当否は判断保留ですが、<理>の理解で(つまり朱子学で)現代韓国の社会システムや併合の時のいろいろな人の立場などを分析する本書は、とてもおもしろい本でした。

支那という表現(余談)

 歴史にからんで中国関係を語るとき、私は若干引っかかるものを感じています。歴史上の唐でも宋でも、そういった王朝がある国土、それらの文化を「中国」という表現(中華人民共和国の略)で語るのに微妙に違和感があるのです。現在の中国政府も、結局は歴代の諸王朝の一つのようなものと思っているからかもしれません。とはいえ、私が受けてきた教育*1ではそれらの統一表現として「支那」を使うのは差別的でいけないことだとされていましたので、抵抗があって容易に使う気にもなれないのです。
 一応、論としてはいくつか頭に入れてはいますので、備忘として記しておきたいと思います。


 呉智英『ホントの話』小学館、より要約

・『東洋史辞典』(京都大学編纂)「シナ」の起源について …始皇帝の建てた「秦」の名が周辺諸国に広まり、「シン」「チーナ」などになり、それが変化したもの
・漢字で書く「支那」は、サンスクリット語の仏典を漢訳したときにできた
・日本でも江戸時代の蘭学者の間で「支那」は用いられていた
清朝乾隆帝が編纂した『四庫全書』の解題文中にも「支那」は出てくる
清朝の打倒を目指した孫文ら革命派は、『清』を使うのを潔しとせず「支那」を使っていた


 中国側の気持ちを考慮せよという言葉に対しては、まず上記の言葉の歴史的使われ方を知ってもらいたいと本当に思います。そして、次の言葉を日本の人に読んで欲しいです。

 今日本で、アメリカの悪口を言ってもイギリスを批判しても、アメリカ蔑視だイギリス人差別だと言う者はいない。それが中国となると、それ中国蔑視だ中国人差別だと金切り声を立てる者が現れる。なぜか。当人たちもはっきり意識していないだろうが、彼らの心中には、日本は中国より上だ、中国は弱い国で中国人は弱い人達だ。「自分たちが守ってやらなくては」という思い上がりがある。その思い上がりは、戦前シナ人を軽蔑した日本人と紙一重、いや同じ穴のムジナだ。なまじ良心づらしているだけ気色がわるい。
高島俊男『本が好き、悪口言うのはもっと好き』より)


 ここらの議論を見る限り、私としては(誤解?が解けさえすれば)「支那」の語を使うのに問題はないと思えるのですが…。そして、中国側(学者・留学生等々)の人が、「シナ(支那)は中国の蔑称で…」と言ってきたのなら、話は単純に思えます。少なくとも現代日本語では「支那」は蔑称にあらず、と答えてやればよいだけかと…。基本的にその語が蔑称か否かは「受け取る人の問題」だけではないと私は思いますから。


 そしてなお問題とされるのであれば、China、Chinois、Chin…等々の「シナ」語源の国名使用と同時に問題にするよう、お願いしたいと思っています。日本だけが言われる筋合いはありません。
 (とはいえそういう知識だけで、自分がこの語の使用に踏み切れないでいるのも事実です)

*1:学校教育ばかりではなく、社会から学ぶものも含めて