責任をめぐって2

 以前書いたことでもありますが、尼崎の電車事故に関して私はマスメディアの追及がちょっと度を過ぎていると感じています。特にボーリング問題以降は、ことの本質から外れた報道、あさっての方向を向いているものが多かったのではないでしょうか。
 こう考える方ははじめに私が思ったよりも多いようで、いくつかのブログや日記で熱くあるいは冷静にマスメディア批判がなされていました。もちろんこれは昨今のマスメディア不信の流れに沿うものでもあり、そういう点から批判の声がかつてより大きくなった面があるのかもしれません。


 またそのあと目につくようになったのは、メディアに煽られる形ではなく、やはりJR西日本の社員がボーリング・宴会等々に行ったのは問題であろうとする方々の声です。


 基本的に私は、マスメディアの報道姿勢への批判にポイントを置く前者と、社員の行動の問題点へポイントを置く後者の意見は対立すべきものではないと考えます。
 ある程度意見がぶつかりあう大きな理由の一つは、後者の問う社員の責任が道義的責任、モラルの問責である点にあるのではないでしょうか。道義的責任は誰にとっても等しく明らかなものではありません。ですから前者の側で、(メディア批判の組み立てとして)JR社員の行動を有責ではないとするロジックに対して、同じ行動を後者の側では有責なものと考え、その部分で食い違いができてしまうのだと考えます。


 マスメディアの題材の取り上げ方、責め方を行き過ぎと判断する議論では、ボーリングに行くなどした当該社員の直接の責任は問えない・少なくとも法的責任の話ではない・もし自分が同じ立場でもやってしまいそうな行動である…などの理由で、メディア側の加熱に違和感が語られます。
 これに対して当該社員の行動に問題を感じる方々は、前者の議論がこういう行動を免責する立場に見えてしまい、モラルの低下を危惧されているのではないかと思います。


 私は、前者で考慮している責任は法的責任のカテゴリーに近い狭義の責任であり、後者が問題とする責任は道義的責任と言われるような広義の責任ではないかと考えます。このずれに気付きさえすれば、本当に意見が反対向きの方々はそれほど多くないと思うのです。前者で社員の行動があらゆる点で問題ないと考える方も、後者でほとんど法的責任のようにそれを責めようと考える方もおそらく少ないはずですから。

道義的責任

 話を法的責任から始めてましょう。近代法罪刑法定主義と事後法の禁止を重要な理念として持ちます。これは、恣意的な法の適用(責任追及)を排除するために重要なものです。これらの前提のもとに、責任とは批難可能性として考えられるものです。あくまでも「責任」はルール違反という形で(予告され、それを破らない行為の選択ができた者に)のみ発生します。
 もちろんルールが完璧なものでない以上、ケースによっては不備もあるでしょう*1。ですが私は現時点でこれ以外のやり方で明確な「責任」を問うのは説得的ではないと考えます。神ならぬ身の人間が他者を裁くというのは非常に重い行為なのですから、説得的ではない理由で他者を責めるのに躊躇した方がよいとも思っています。


 道義的責任は、どんな場合でも誰にとっても等しく自明というものではありません。その意味で普遍的・論理的ではない面を持つと言えるでしょう。もちろんそれを自分で選択した人にとっては明らかであり論理も持ち得ます。ですが、他者にそれを普遍妥当性を持つものとして強要することはできません。


 それはある意味「内輪の論理」に支えられてあります。そして逆に言えば、道義的責任の感じ方を共有する人々がある意味「内輪」になっているといえるのではないでしょうか。
 それが内輪のものであるがゆえに、道義的責任は暗黙の了解を前提にします。様々なケースにおいて、それがどのような責任なのか、責任の適用範囲はどこまでか、程度からくる責任のあり方(量刑的なもの)はどうあるべきか、批難できる主体の資格はどの範囲か…全然明示的ではないです。
 私が危惧する点は、少なくともそれらが明示的でない場合、道義的責任を迫られる者は有効に抗弁できませんし、どこまで責任追及されるかあまりにも恣意的だというところです。


 それでもなお道義的責任という考えが存在するのは、そしてそれを自分にも他者にも問いたくなることがあるのは、道義的責任が自らの意思・選択としてあり得て、自分でもそれを自らに課すことがあるからではないでしょうか。
 私は道義的責任のレベルに自分なりの(内輪の)正しさはあると思いますが、それを超えた正義なるものが関わる次元ではないと考えます。だからこそ(自戒も含めて)それを他者に適用する(押し付ける)ことはできないだろうと思っているのです。(もちろん説得しようとすることはできますし、相手にそれを考えさせる試みは無意味ではないでしょう…)


 JR社員の行動に対して「あきれた」という意志の表示が、問題を感じたとしてできることのせいぜいなのではないでしょうか?
 私自身、たとえば「人間として」「日本人として」「おとなとして」「〜の所属として」というように、他者に道義的責任を問いたくなる局面は多々存在します。今回の事故後の社員の行動にしても無条件で良しとする立場ではありません。
 しかし同時に私はそこでちょっとためらいも覚えます。その感覚は社員の行動を疑問視する方々にもおわかりいただきたいと思います。そして、ちょっとこういう面でお考えいただいて、最初に挙げた「意見の対立」に見えるものが本当はそうでもないんだとわかってもらえたらいいなとも考えるのです。

*1:たとえそれが完璧ではなくても、有用性を認め、改善可能性を慰めによりよい方向を信じるという選択をわれわれは行っているのです