1円訴訟

 韓国・朝鮮人の名前の現地語読みは、現在では政府・マスコミを通じて、相互主義的取り決めによって行われています(つまり向こうでも日本人の名前は日本語読み)。


 漢字教育の比重をあえて小さくして漢字が読めない世代比率が高くなってきていた韓国では、日本人氏名をハングルで(日本式に)表記するため、それに日本側も合わせて欲しいという要求があったと聞きます。ハングルではどうしても音写になりますから、日本が音写しない場合、どうしても韓国側で一方的に配慮している形になります。それが気に障ったのではないかと…。
 具体的にこの取り決めに関する経緯の記録はまだ見つけておりませんが、この現地語読みの切っ掛けとなった事件は、ことさら人権問題として強調され流布しているようです。


 それは1975年に遡ります。


 九州の小倉で、在日大韓基督教白銀教会の牧師をしていた崔昌華氏が、指紋押捺問題に関してこの年の9月NHKのインタビューを受けました。彼は事前に自分の名前の呼び方は「チォエチャンホア」であると申し入れしていたのですが、放送では「サイショウカ」と日本語読みがされました。そこで彼はNHKに抗議したのですが受け入れられず、同年10月3日NHKに対し人格権侵害による損害賠償請求の訴訟を提起したのです。
 この訴訟が話題となったのは、彼が損害賠償額として「1円」という金額を提示したためでもあり、このため「1円訴訟」とも呼ばれます。


 この訴訟は最高裁まで争われ、1988年最高裁は『人は他人からその氏名を正確に呼称されることについて、不法行為法上の保護を受けうる人格的な利益を有する』としましたが、『在日韓国人の氏名を日本語読みによって呼称する慣用的な方法が是認されていた社会的状況の下では違法とはいえない』とし、結局害賠償請求裁判は敗訴となっています。


 しかしこの事件が結局のところ「現地語読み」の切っ掛けになったというのが定説で、そのためかいわゆる人権派の方々の間では崔牧師は一種の英雄となっています(彼は故人となっておられます)。


 さて彼自身、韓国人とか在日韓国人とかさまざまに言われますが、実際は戦後の不法入国者の一人であったことは明らかなようです。彼への批判は、まず権利を主張するのにその前歴はなんだという調子で語られます。私自身は、この点を殊更に突っ込むのは印象操作の感じがして好きではありません。主張の内容とは異なる次元での話だと思うからです。
 ただこの裁判において、裁判の訴状に自分の名前をハングルで書けとか、第三者の民族に属する裁判官を置くことが最も望ましいとか、こういう主張をされたのはいただけません。あくまでも日本での裁判に訴えたわけですから、その手続きの限度を逸脱した主張からはむしろ何らかの思い上がりの気配が感じ取られます。正義を求められる方にしては、いささか民主主義のプロトコルや話を向ける相手への配慮に欠けていると思われるのです。


 戦略的にはこのような訴訟もありだとは思いますが、ちょっとこういう正義を振りかざす感じにエスカレートした人権派には戦術的誤りがあるような気がします。頑固になられるのはいいのですが、もう少し慎ましやかな態度を見せた方が共感を呼ぶと思うのですが…


 私は現地語読み相互主義はそれほど批判的に考えてはおりません。お互いに話がついたのなら、それは尊重して運用していけば良いかなと。
 ただ、これは差別の次元でも人権の次元でも全くない次元の取り決めであることだけは認識しておくべきだと思います。いずれかの国で、自分の国とは異なる名前の呼び方をされているとしても、それは差別にも人権云々にも基本的にはあたらないということです。たとえばヨハネ・パウロと日本で呼び、ジョン・ポールとアメリカで呼んだとしても、先の教皇はそれを差別的とお感じにはなられなかったでしょうね。
 それだけのことですが、一応備忘として残しておきます。


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