両班とは

 知り合った韓国人留学生の何人かは自分の家の過去を「両班(ヤンバン)」であると語っていました。でも最初にこの語を聞いた時には全く知識がなく、そういわれても何の感慨も湧きませんでした。


 李朝の政治システムはChina王朝の制度に由来します。絶対権力者の王の下、文官・武官の両官僚群が合議で政務をとり行なうというシステムです。この文官(文班)と武官(武班)を合わせて「両班」と呼びます。(しかしこれが「身分」になってしまったのが問題でした)
 李朝においてはクーデターを恐れるためか極端な文治主義が採られ、武官は文官に対して、はるかに劣位な状態に置かれていました。軍の指揮官には中央軍にせよ地方方面軍にせよ高級文官が就任し、名目上の高位の武官職もすべて高級文官による兼任という形が採られていました。
 これらの官僚体制を維持するために、これまたChina式の官吏登用制度である科挙が実施されていました。科挙の試験には文科・武科・雑科(技官試験)の三部門があり、三年に一度行なわれるものでした。そして文科の試験は中国の四書五経史書、詩文についてのもので、結局儒学をどれだけ修めたかを試すものだったといえます。


 この試験制度が開かれたものであれば問題はなかったのですが、文班・武班に就いた官僚の子弟だけが科挙の文科を受験することができるとされ、この「両班」が身分階級、事実上の貴族階級となったのです。
 李朝の官僚には正一品上から従九品下までの三十六階級があり、上位二十四階級が参上官と言われる上級官吏層、下位十二階級が参下官と呼ばれる下級官吏層でしたが、特に上位十二階級は堂上官と呼ばれる高級官僚層とされていました。(十二階級ごとに上・中・下の区別)
 そして、親が参下官の子はどんなに優秀でも参下官どまりというように、両班の中でも出身身分によって昇進が限界付けられていたのです。一応身分制度の枠内では成績主義が採られたのですが、このような制度では結局固着化や形骸化は免れないでしょう。貴族階級化したこの「両班」身分は、世襲身分となっていったのです。


 また、官職を得られなくても両班身分(受験資格ですね)は世襲されることになりましたから、金で両班の地位を買ったり、贋の資格証を売ったりということが繰り返され、怪しげな自称両班層も膨大に増加しました。そして1858年の推計で全人口の48.6%というところまで増えたのです
 両班というものは、他人の目に労働と見えることからできる限り遠ざかろうとしました。衣服も自分の手で着てはいけないし、タバコの火も自分で点けてはいけません。近くに手伝ってくれる者がいない場合は別にして馬の鞍に自力でのぼるべきでなく、また荒馬から落ちたとしても、誰かがやってきて抱き起こすまでは地面にそのまま倒れていなければならなかったのです(笑)。両班にとっては、全ての労働行為が礼に反するものと考えられたからとはいえ、ちょっとやりすぎ…。
 そして彼らの職分は官僚で、他の職に就けば両班の資格が無くなるとされましたし、官職数は限られているものですから、彼らの多くは何ら働くことなく、ただただ官職獲得のための運動を日々繰り返すだけだったということです。

「(両班は)現在、この国の大きな災厄になっている。なぜなら、両班階級の人口が途方もなく増大したため、彼らのほとんどが極貧におちいり、強奪や搾取で生活しなければならなくなったからである。すべての両班に品階と階級を与えることは、現実的に不可能である。しかし全ての者がそれを望み、幼少の頃から官職の道に向かって科挙の準備をしている。ほとんどの者は、他に生活の方法を知らない。
彼らは、商業や農業、あるいはなんらかの手工業によって真面目に生活の糧を稼ぐには、あまりにも高慢であり、貧窮と奸計のなかで無為に世を送る。彼らはいつも借金で首がまわらず、何かちょっとした官職の一つも回ってこないかかと首を長くしており、それを得るためにあらゆる卑劣な行為を尽くし、それでもなお望みがかなえられない場合には飢えて死んでしまう。宣教師たちが知っていたある両班などは、3、4日に一度しか米にありつけず、厳冬に火の気もなく、ほとんど服も着ないで過ごしながらも、いかなる労働に従事することも最後まで拒絶し通したものであった。何かの労働に就けば、たしかに安楽な生活は保障されるであろうが、その代わり両班の身分を剥奪され官吏の地位につける資格を喪失するため、彼らは労働することを拒むのである。」
 (シャルル・ダレ『朝鮮事情』平凡社東洋文庫