金玉均

 今でこそ忘れられかけていますが、李氏朝鮮にも親日派の人物がいました。もちろんそれは「売国奴」みたいなおかしな意味ではなく、日本を評価し、日本と結ぶことによって朝鮮を変えていけると考えた人です。歴史のいたずらで今の韓国での評価は極めて低いと聞きますが、李朝末の開国(1876)後の開化派の指導的政治家、金玉均がその人です。


 1884年12月4日のクーデター「甲申政変」に失敗した金玉均は日本に亡命します。そして彼が1894年に上海で暗殺されるまで日本に留まっていたわけですが、この間、彼が何をし、日本とどう関わっていたかは非常に重要な歴史上の一頁だと思います。
 それでは端的に彼が何をやっていたかと申しますと、碁を打っておりました(笑)もちろんそれだけであるはずはないのですが、実は日本の囲碁界の歴史において、彼がとても重要な歴史的役割を果たしたということは確かなのです。


 江戸時代、日本においてのみ囲碁のプロ(=棋士)が存在していました。安井・井上・林そして本因坊の四家が、「家元」として認められて将軍家より御扶持をいただいていたのです。これら四家は江戸城で行われる年一回の「御城碁」という公式戦で手合いをし、碁所(=名人)の格をめぐって競い合っていました。他のいずれの家元制とも異なり、この碁の家の当主だけは「実力主義」で決められ、強い者ならば身分・血筋に拘らず名跡を継いだという点は非常に面白い点だと思います。


 さて本因坊家(坊門)の14世である本因坊秀和は、まさに転変する歴史に翻弄されました。まず後継者として内定していた弟子の秀策を、幕末のコレラの流行で失い、幕末の動乱で御城碁も中止。そうこうしているうちに、パトロンである江戸幕府が倒れ、職業としての棋士の存亡に関わる事態になってしまったのです。そういう状況下、明治六年、54歳で秀和は亡くなります。


 このような非常時における後継者を巡り、坊門で内紛が起きます。本来でしたら、最も力量が認められた村瀬秀甫(彼は出入りの大工の息子だったそうです)が名跡を継ぐはずでしたが、横槍が入れられて、秀和の実子である秀悦が15世本因坊を継ぐことになってしまいました。収まらないのが秀甫で、彼は坊門から棋士たちを連れて独立し、「方円社」というプロ棋士集団を旗揚げします。この方円社のパトロンとしては、井上馨山縣有朋大隈重信後藤象二郎渋沢栄一など、錚々たる面々が協力したそうです。

 対局によって収入を得るという棋士の職業は、スポンサー無しには始まりません。方円社が秀甫の工夫で船出した頃、一方の坊門はパトロン探しにも困りどんどん衰退していきました。せっかく15世を継いだ秀悦も、数年で精神障害を起こし引退。つないだ16世秀元にしても妙手はなく、方円社との差は開くばかりです。
 そこで坊門では、秀和の実子で、養子で林家を継いでいた稀代の名人、秀栄を17世本因坊として呼び戻します。(秀栄は、秀策が後継者としていたため、親の秀和の計らいで林家にもらわれていったのでしたが、囲碁の実力としてはすばらしいものがもともとある人でした)

 実力本位の囲碁の世界では、強ければパトロンも着きます。秀栄のおかげで本因坊家は一息つくことになったのでした。さて、ようやくここで金玉均が登場してきます。


 日本に亡命した金玉均は、もちろん貴族の嗜みとして囲碁を覚えてはいましたが、300年間に渡ってプロがいた日本は、相当朝鮮との実力差を広げており、金は日本政界の関わりで方円社の秀甫に渡りをつけ、囲碁を教えてもらい始めます。またほどなく秀栄とも知り合い、ほぼ同年齢の二人は意気投合し、生涯の無二の友人となるのです。


 金玉均囲碁界に対する功績の一つは、ここで秀甫と秀栄の仲立ちとなり、方円社と坊門の和解のためのトップ同士による「十番碁」の開催にこぎつけたところにあります。秀甫と秀栄によって打たれた「十番碁」では、第九局が終わった時点で本因坊秀栄が、本来継ぐべきだった秀甫に18世本因坊禅譲し、方円社と坊門の合体という形で和解が成立するのです。(「十番碁」そのものは5勝5敗の五分で終わります)


 ところがこの年、1886(明治19)年に、日本政府は金玉均を小笠原へ配流という方針を出します。それまで比較的自由に(常に刺客の影に脅かされてはいましたが)東京で暮らしていた金は、外交的配慮ということで罪人のように小笠原へ送られてしまうことになったのです。当時の小笠原は、三ヶ月に一度しか船便が通わないような土地でありました。金は命令に従い小笠原へ赴きます。(現在東京都の小笠原村では、金玉均がやってきたことによって囲碁が盛んになった、という伝承を残しています)


 さてせっかく和解がなった方円社と坊門なのですが、不運なことに18世本因坊秀甫が名跡を継いで数ヶ月で急死してしまい、方針の違い(というより実はパトロンの取り合い)で紛争が再発。そしてまた分裂ということになってしまいます。秀栄は再度19世本因坊に就きますが、ほとほと人間関係に悩まされ、何と彼は、その三ヶ月に一遍しか行かないという通船に乗って、親友の金玉均を毎度訪れるようになったのです。


 二年ほどに渡る小笠原暮らしでしたが、金玉均は健康を害したことを理由に転地願いを日本政府に出します。政府はそれではということで、1887(明治20)年に北海道へ行くように指示してきます。体の良いたらい回しなわけですが、秀栄は友人に付き合って金玉均と同じ船で北海道に渡り、七ヶ月に渡って同地に滞在したそうです。本因坊秀栄の名は北海道においても高く、彼が北海道の有名人士との間を取り持って、金玉均の北海道での滞在は、結構楽なものとなったと言います。


 金の北海道滞留もほぼ二年続きましたが、1890(明治23)年11月、ようやく自由の身となって東京に戻ることが許されます。帰京した金と秀栄の喜びは如何ばかりのものであったでしょう。そしてこの東京在住の期間に、方円社を退社して生活に困っていた棋士、田村保寿と知り合った金玉均は、秀栄に頼んで彼を坊門に受けいれてもらいます。これが彼の日本囲碁界への第二の功績です。田村保寿こそ後の21世本因坊秀哉であり、世襲によって本因坊名跡を継いだ最後の人、また本因坊名跡を手放し、事実上後のタイトル戦の形式を作った人なのです。この後、金は名前を変えて欧米を遊歴します。


 1894(明治27)年、李鴻章と朝鮮問題についての話し合いがもてるということで、金玉均は上海に誘い出されます。彼の友人知己の日本人たちは上海行きを引き止めますが、金は自分の運命を黙って受け入れるかのように、愛蔵の碁盤を人に譲り、上海へと向かったのでした。


 1894年3月27日、日本郵船会社の「西京丸」で連れの洪鐘宇、日本人北原と共に上海に着いた金玉均は、日本人経営による旅館、東和洋行に泊まります。東和洋行の主人吉島徳三が上海に来た目的などを訪ねた時、金は自分は岩田和三という名で、上海に遊びに来たと答えたそうです。次の日の午後三時ごろ、洪鐘宇は朝鮮の官服に着替え、金玉均の部屋を急襲し、昼寝中の彼に向かい三発の銃弾を発射します。金は部屋を逃れ、廊下を逃げますが結局地面に突っ伏して幾度か転げ回った揚げ句に絶命。洪は慌てふためいて旅館を飛びだし、それを見た吉島が日本領事館へと通報。しかし領事が朝鮮人同士の殺し合いに関与せずと判断したため、吉島は更に米国租界の巡捕房(警察署)へ通報という経緯があったそうです。


 金玉均の遺骸は清国海軍によって朝鮮へ送られ、かの地で死体が惨たらしく晒されることになります。日本においてその暗殺と悲惨な死に様が、反朝鮮・反清の旗印として利用されたと記録にありますが、そういう目的で利用できたのも、金玉均が日本の多くの人と交流がある有名人であったという事実があったからであり、日本囲碁界と彼の深い関わりも、もって与ったところがあったのではないでしょうか?