目にみえないもの

?何故人は、目に見える物ばかり信じ、目に見えない物を信じないのでしょうか?

 はてなの質問です。まだ動きがないので、トラックバックは打たないでおこうと思います。
 まる三日以上、最初から一つも回答は閲覧されてせんね。30名近くが回答しておられますし、まだ増えるかも。どうなることやら。質問者の方はデビュー戦のようで、放っておくようならキャンセル→退会すらありそうでハラハラです。
 私は遠慮しましたが、早く回答を見てみたい気もします。


 まず一つは出てくると思われるのが、次のフレーズではないかと…(結構多いかも)。

「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目には見えないんだよ」
(『星の王子さま』より きつねの言葉)


 この言葉を出して答える方がいらっしゃれば、それはおそらく質問者に同情と共感を寄せるものでしょう。私も個人的に大好きな本です。そのときどきでいろいろ考えさせられますし、たいてい泣けますから(笑)。


 さて第一感でそういう言葉が思い出されたわけですが、そうは言ってもこの手の質問を直接投げかけられた場合は、まず素直にうなずけないような気がします。
 何より私はこの社会の人々が、本当に目に見えるものばかり信じているとは思っていないんです。
 たとえばプライド、たとえば恐怖、たとえば愛欲、名誉、好奇心、嫌悪感、理想、主義主張、偏見…。いかに多くの目に見えないものにわれわれは左右されているか。そしてそれによって悲劇が起きているか。考えてみれば誰にでもわかることだと思います。


 こういうケースでたいてい槍玉にあがる目に見えるものの王者、お金・財産でもそうでしょう。それは形あるものの姿で私たちに迫るようでいて、一皮剥けば根拠などどこにもみつからないようなものです。国や銀行への信頼があるから紙幣が通用するだけで、それは真の価値などではありません。原価(笑)は安いです。お金の形や通帳の数字、証券の枚数や権利書などではかれるような気がする財産も、デフォルトが起きたりインフレが起きたり、あるいは大災害が起きればほとんど価値を失うかもしれません。権利書は食べられませんから。あるいはその時その時の相対的な自分に対する価値がすべて(喉の渇いている時の水、おなかがすいている時の食べ物)なのかもしれませんが、そんな目の前の見えるものだけで安心できる人はまずいないでしょう。将来への期待、不安、もくろみ等々が今の気持ちに影響してきています。
 そして何より問題なのは、私たちはそういった目に見えないものがなければ生きていけないようになっているということです。お金の批判をするのはたやすいでしょう。しかしすぐにお金など擲って生きていけるかといわれれば無理です。愛や人に対する執着でおかしくなっている自分を笑うこともできます。しかし全くそれ無しの自分は考えられるでしょうか?自尊心で妙な行動を取る人たちはバカだと思います(最近の日記ではそういう誰かさんを批判もしてます)。ただ、本当にそれに拘らない自分を明日からやってみることができますか?


 おそらくそういう目に見えないものからの呪縛を解こうとする試みの一つが、仏教の悟りなのでしょう。
 でも今の私には遠いですね(反省)


 つらつら書いてみると、結構質問にネガティブなことばかりです。とても抽象的な質問なので、気を回せば質問者の悲しい事情が推し量れるかもしれません。これを回答するのは鬼ですね。ということで遠慮したのでした…