靖国と宗教

 最近私はある意識調査をいたしまして、対象となる方々(標本数は400弱)に「あなたには信仰心はありますか」と尋ねたところ「ある」とされた方が23%おられました。しかし同じ対象に設問で「死んでも意識は存続すると思いますか」と尋ねたところ、「どちらかと言えば〜」まで含めた肯定的回答は47.7%にのぼったのです。


 まさにここに見られる数字の差が、「靖国」を信仰であるとみなすか信仰ではないと思いつつ参拝するか、そこらへんの認識の違いに直接結びつくものではないかと思います。
 信仰心という形で問われた時、普通の方々はまず宗教組織に加入しているかどうか、教義や経典を知っているかどうか、あるいは自分の知るところの教えに共感しているかどうかなどで答えを探すのではないでしょうか。でも私は上の質問で「死んでも意識は存続すると思う」方々も十分宗教的であると考える立場におります。
 まして神や死後を絶対に信じないという積極的無神論の方を除いた、もっと薄い意味での宗教性を有する方々の率となりますと、47%の二倍いってもおかしくないような気がします。


 靖国神社参拝は宗教的行為ではない、あるいはそれは「自然」な行為であり宗教ではない、と今現在言いたくなるかどうかは、宗教というものをネガティブに捉えるかポジティブに感じるかの差であると思います。
 私は宗教自体を結構ポジティブに捉えておりますので、ためらいなく靖国は宗教であると申します。同じ対象、同じ行為に対して、宗教という「レッテル」を貼って価値が損なわれると思ってしまうかどうかに大本の差異があるのではないでしょうか?


 確かに金保などのいかがわしい行為、オウム真理教の事件などなどを想起しますとそこに負の側面を感じないわけにもいきませんが、それはどの国の人間にも犯罪者がいるのと同様、一定の割合で宗教をネタに悪事を行う者がいるということだと思ってもおります。しかも私の捉える宗教性などは広義もいいところで、人間のほとんどにそれを見ていますので…。


 私が靖国問題について最初に書こうと思ったきっかけは、やはり対外的圧力、中韓などのもの言いが言いがかりに思えたことでした。なぜ他人様の信仰に文句をつけることができると思うのか、あまりにもわかってなさすぎると思い、自分の考えをまとめたのです。
 そこで見えたと思ったのが、イデオロギッシュな方々の「内面の自由」に対する無理解でした。人に掛ける枷はせいぜいが最低限のルール、法的強制にとどめ、「こう生きるのが正しい」的な押し付けはやめていただけませんかととても強く感じました。


 実は靖国の国家護持の方向に対してもこれを微妙に感じます。私自身はたいした信仰者でもありませんし、どこそこの宗教施設に参拝するのはタブーという制限は持っておりません。各地の寺社仏閣、教会などにもあまり考えずに参ることができるほうです。しかしそれは自分の行為が自発的だと思うからこそのことであって、やはりどこかで「信心」を決められれば反発するでしょう。


 「靖国神社は宗教ではない」、お国のために亡くなった方を慰霊するのは国民として当然のことだから靖国は宗教ではないんだと言うのは、そのまま国家神道のもの言いにつながる気がします。「国家神道は宗教ではない」、それは皇室崇敬と同様に日本人なら当たり前に持つ基底的なものだ、と言う言説が昔あったのです。
 そしてこれはむしろもともと神社神道が持っていた宗教性を、結果としてだめな方向に導くものだったと私は思っています。
 たとえば1930年、真宗各派は「神社を国民道徳的意義で崇敬するが、宗教的意義で崇敬することはできない。神社に対して吉凶禍福の祈念をせず、その意味をもつ神社護札は受けない」という声明を出しています。国家神道が宗教ではないというなら、普通の神社としてのあり方をやめろという仏教側の挑戦ですね。
 また同年、日本基督教連盟は五項目の『神社問題に関する進言』を発表し、「神社が宗教か否かの調査を充分に行い、神社が宗教でないならば、宗教活動をやめ、神社参拝を強制しないよう」に要望を出しています。
 すべては「国家神道は宗教ではない」という無理なことを押し付けようとしたゆえの矛盾から生じていたのではないでしょうか?


 というところでひとまず止めておきます。少しでもマッコイさん(id:drmccoy)の呼びかけにこたえられているでしょうか?
 と、ここまで書いて、新しいエントリーに気付きました。どうしましょう(笑)。
 まあこれは論争ではありませんから、ぼちぼち続けていくことにいたしましょう。