民族宗教と神道

 神道民族宗教に分類され、国家神道靖国神社もこの範疇に入るでしょう。しかし歴史・社会・文化の型に日本人のエトスを求める場合、神道は確実にその部分ではありますがすべてではありません。この「民族」に関わるという点が、靖国の賛否に影響を強く与えていると考えます。


 少し以前の宗教学の入門書などでは、様々ある宗教の分類の中で「形態から分けるもの」、「伝播の側面から分けるもの」の二つはたいてい記されていました。形態でわけるものの定番は「自然宗教創唱宗教」の二分法であり、伝播でというのは「部族宗教民族宗教世界宗教」の三段階です。(この「段階」などという進化モデルが今やこの分類を古びたものに感じさせるのですが…)

自然宗教創始者を持たない宗教(ユダヤ教ヒンドゥー教道教…)
・創唱宗教創始者を持ち、その教えが伝えれらる宗教(キリスト教イスラム教、仏教…)


・部族宗教…未開社会(小集団)の中にのみ伝えられる宗教
・民族宗教…地縁・血縁・文化伝統・習俗の枠組みで捉えられる民族社会の中にのみ伝えられる宗教
・世界宗教…人種・言語・国家の広がりを超えて伝播する宗教

 この分類で分ければ、靖国神社国家神道は「自然宗教」で「民族宗教」というカテゴリーに入るでしょう。大枠の神道じたいがその位置付けにあるからです。


 ですがこの「民族宗教」という言い方をとるとして、神道の内容が過不足無く民族伝統と一致するわけではないのです。もちろん国学などのように、神道的なものに日本人(精神)の原型を求める試みはあります。国家神道もその筋を追いました。私は日本の伝統や文化の基底をそこに限定するのはフィクショナルな試みであろうと考えます。
 「日本人とは何か」という問いを宗教の中に求めた初期の方として堀一郎氏がおられます。彼は民間信仰を「歴史・社会・文化の型に規制され、育成されてきた民族・社会の特質に基づく宗教意識、行動様式」として捉え、その類型を整理して法則を見出すことにより「日本人の信仰の原質や原型」、「日本人のエトス」というものへ辿りつくことを目指しました。(堀一郎民間信仰』岩波選書)

 堀が一つの現象として総体的に捉えた農村社会の信仰実態は、同族的祖霊信仰に根ざす内包的な信仰と霊神霊仏の勧請、結縁という外延的な信仰の重層的・併存的な在り方に特徴が見られるものであり、これは今なお宗教民俗学の考察の出発点として重要な意味を持っている。
(棚次正和・山中弘編著『宗教学入門』ミネルヴァ書房

 簡単に言えば、教義的なものが強い創唱宗教に関わらないところを調べれば、そこに影響されないものが見られるだろうと調べてみたら、いろいろ積み重なってあった、というところでしょうか。たとえば本居宣長は『源氏物語』に「もののあはれ」を見出だし、純化した概念としてそれを扱おうとしましたが、もともと『源氏』から仏教の影響を抜いて考えようとするのが無理だったと私には思えます。千年も前からすでに日本人は外来のものを取り入れて咀嚼し、それも込みで「伝統」を創ってきたのです。
 神道的なるものは日本の文化・伝統にとって重要な部分であるとは思います。しかしそれだけで日本、あるいは民族というものを捉えることはできません。そこらへんに何か靖国をめぐる勘違いの種が一つあるような気がします。


 靖国参拝に対してネガティブな内外の方々は、「日本」(もしくは「やまと民族」)という観念に文句をつけたいのではないかとも思えます。それが民族主義エスノセントリズムナショナリズムに連なると思うからこそ過大に評価し、敵視するのでは?
 私はそれを誤解だと考えます。また中韓靖国を問題視するのには、ナショナリズムのぶつかり合い(と彼らが考えている)という裏の側面があるのではないかとも思います。


 靖国神社に対する崇敬・信仰の背景、また「国家神道」の中にさえ、日本の宗教伝統の大事な部分があったことは否めないでしょう。ただ、それは一つの「部分」でしかないことも認識すべきかと思います。それが「全て」であるとする誤解が、靖国反対、そして靖国国家護持の両極の考え方を生み出してしまっているのではないでしょうか?