蛍の光

 蛍の光が四番の歌詞まであるというのは、昨年まで知りませんでした。(作詞の経緯について詳しく存じませんが、二番までの馴染み深い歌詞とその後の歌詞が違う人の手によるという情報もないので、一応同じ方の作詞と考えます。)

   蛍の光 窓の雪
   書読む月日 重ねつつ
   いつしか年も 杉の戸を
   明けてぞ けさは 別れゆく


   とまるも行くも 限りとて
   かたみに思う ちよろずの
   心の端を 一言に
   さきくとばかり 歌うなり


   筑紫のきわみ みちのおく
   海山とおく 隔つとも
   その真心は 隔てなく
   一つに尽くせ 国のため


   千島の奥も 沖縄も
   八洲のうちの 守りなり
   至らん国に いさおしく
   つとめよ 我が背 つつがなく


 さて、歌詞の文学的価値はおいておいて、いかにも「軍国的」と批判を受けそうな後段の歌詞です。卒業式などでは三番以降の歌詞が場に馴染まないと思いますし、ゆっくりしたテンポの歌ですから式典などで二番までしか歌わないというのも納得できることと考えます(長いですし…)。
 元歌が良いのももちろんありますが、それなりに古雅を感じさせる歌詞も好きです。個人的には、二番までと割り切って、これからも「蛍の光」が歌い継がれるように願っています。


 この歌が四番まで歌われた過去の状況では、それが「愛国的」であり、場合によって「軍国的」に受け取られていたのは疑えません。しかし私はこの歌が戦後も生き残り、歌い続けられ、それに出会えたことに感謝しています。私にとっての蛍の光の価値は、知らなかった三番・四番の歌詞に関わりがありません。


 こちらは少し以前から知っておりましたが、文部省唱歌われは海の子もあまり知られない歌詞を持っています。

一、
  われは海の子、白浪の
  さわぐいそべの松原に、
  煙たなびくとまやこそ、
  わがなつかしき住みかなれ。
二、
  生まれて潮にゆあみして、
  波を子守の歌と聞き、
  千里寄せくる海の氣を
  吸ひて童となりにけり。
三、
  高く鼻つくいその香に、
  不斷の花のかをりあり。
  なぎさの松に吹く風を、
  いみじき樂とわれは聞く。
四、
  丈餘のろかいあやつりて、
  ゆくて定めぬ波まくら、
  ももひろちひろ海の底、
  遊びなれたる庭廣し。
五、
  いくとせここにきたへたる
  鐵より堅きかひなあり。
  吹く潮風に鄢みたる
  はだは赤銅さながらに。
六、
  波にただよふ氷山も、
  來たらば來たれ、恐れんや。
  海卷きあぐる龍卷も、
  起らば起れ、おどろかじ。
七、
  いで大船を乗り出して、
  われは拾はん海の富。
  いで、軍艦に乗り組みて、
  われは護らん海のふ國。

 これもまた普通二番までしか歌われないでしょうし、そこまでの歌詞しか目にすることはないはず。もしかしたらもったいないと思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、歌詞は抹消されることなくこのように残っていますので二番まででも充分に生きていると言って差し支えないと思います。


 靖国神社に軍国的な過去があったとしても、今もそうだと思われるでしょうか?私には靖国がそんな力を今も持っているとは思えません。今靖国神社に参拝される方の大多数が、軍国主義復活とやらを望んでいると考えることはできないでしょう。仮想敵を過大評価して過敏になってもつまらない話です。
 「蛍の光」や「われは海の子」のように、そっと生かしておいてあげればいいのではないでしょうか?過去はどうあれ、今私たちはそれで普通にこれらの歌と付き合っていけるのですから。

余談

 靖国神社が英字紙で時事問題に絡んで紹介される時、war shrineと書かれているのを何度も見かけました。これは非常に手抜きの誤訳です。Yasukuniと言っても何のことかわからない読者に対して、偏った見方を与えるだけの言葉です。しかしもしかしたらここに現れているのは、悪意ではなく無知なのかもしれないとも思います。


 確かに神社は戦勝祈願を行うところでもありました。ですが戦いの祈りを捧げた宗教施設は歴史上いくらでもあります。むしろ戦いに全く関与しなかった古い宗教伝統を探すのが難しいくらいでしょう。
 たとえば14世紀ポルトガルで、隣国カスティリアに攻め込まれたジョアン一世は聖母マリアに戦勝を祈願しました。そして勝利を得た彼は感謝を込めてMosteiro de Santa Maria de Vitoria(勝利のサンタ・マリア修道院)を建てました。


 聖母マリアはwarという冠をつけて呼ばれるべきなのでしょうか?