新しい伝統/初詣の話

 神道と言えば初詣、と最近どちらかのコメントで見たような気がいたしますので、そこらへんの話を書きたいと思います。神道と私たちの暮らしの接点は、現在限られた行事や風習に残るのみかと思います。たとえばそれは神前結婚式。子供が生まれてからの御七夜、宮参り、七五三、成人式。正月の初詣。合格祈願に厄除。そして神社のお祭り…。


 でもこういったものがはるか昔から伝統的にあった、と考えるのは早計です。中には結構新しい「伝統」も散見されます。もしかしたら今日見られる私たちと神道とのつながり自体が、近代の国家神道の確立の中で創り出された部分が多いかも知れないのです。新しいからだめだと言う気も全くありませんが、最初に見聞きしたときに驚いたのは事実です。


 まず最初に私が驚いたのは、明治以前の皇室の葬儀が仏式で行われていたことを伺った時でした。1868(慶応四)年にいわゆる「神仏分離令」が布告されますが、その直前、慶応二年に亡くなった孝明天皇の葬儀は仏式で行われ、皇室の菩提寺であり「御寺」と呼ばれる泉湧寺に埋葬されていたのです(泉湧寺のサイト参照)。
 泉湧寺が皇室の菩提寺になったのは鎌倉期の承久の変(1221)以来だそうですが、天皇の火葬は江戸期に中止になるまで平安期以前から続いていたとか。言われてみれば仏教を日本に積極的に持ち込み、通用させていったのも聖徳太子をはじめとする皇室関係の方々なので当たり前のことなのかもしれません。法皇の例や門跡寺院のことなどからも、仏教が皇室に密接に関係していたのは普通の歴史的事実なんですね。
 また江戸期を通じて宮中には黒戸御所と呼ばれる歴代の位牌や仏像をお祀りする場所があったそうで、これは宮中にも仏壇があったことと同じでしょう。(1871(明治四)年に取りやめ、泉湧寺に預けられたそうです)


 1868年は明治元年にもあたりますが、この年の十二月に孝明天皇の三周忌が参りました。ここから祭儀が神式に改められ(名前も三年祭になり)、以降皇室の葬儀は皇室典範に則って「神式」で行われます。昭和天皇のご葬儀や皇太后のご葬儀などはまだ記憶に新しいところです。それは殯宮(もがりのみや)を建てるなど、一見古代と直結の儀礼のように思われますが、実は近代以降の伝統だったのです…。


 さて同様に驚くのが、江戸期には初詣はなかったというお話です。以下高木博志氏の「初詣や神前結婚式のルーツを探る」(別冊宝島EX『神道を知る本』宝島社、所収)などを引きながらちょっとご紹介します。

 (近世の京都の町の)正月元旦には毎年変わる恵方陰陽道に定める功徳ある方位)に向かって吉方棚を設け、松竹、供物、灯火を献じて、歳徳神を家の中に迎え入れたのである。また京都の近郊宇治では、元日には大戸をおろして、一日中、掃除もせず風呂も焚かず薬も飲まない忌みごもりが近来まで残っていた…
 …
 江戸の町の商家の元旦も、戸を閉ざして屋内にて静かに休養し、東日本の農村部は正月三が日は全村こぞって休みをとり仕事をしなかったという。


 明治以前の正月行事は基本的に家の行事でした。若水というのも聞いたことがあります。御屠蘇の風習にも似た儀礼ですが、正月に家長がその家の井戸から一番に汲んだ水を、家のもので年齢順にいただき無病息災を祈るという行事です。正月は皆が歳を取る日でもありましたが、それにも関わってくる歳徳神というものは、外からやって来て家で向かえる迎えるものだったのです。
 人々が参詣に行くのは、例えば初寅なら鞍馬寺、初卯なら賀茂神社住吉神社というように毎年変わる十二支に基づいた参詣先というのがありまして、対象は寺社を問いませんし、その地方毎にきまりがあったのです。


 正月元日の儀礼としては、皇室の四方拝を忘れてはいけないでしょう。元日、天皇は清涼殿東庭で、年災消滅・五穀豊穣・宝祚長久を祈り、北斗七星・天地・東西南北・山陵を拝しました。この四方拝が原型になってどうやら初詣の風習につながっていったらしいのです。


 私が昔関西で「恵方巻」を節分に食べるという話を聞いたとき、まだ関東でそれを知っている人はほとんどいませんでした(関西出身の方は別ですが)。ところがあっという間に(コンビニの策略?)全国で知られるようになり、節分に太巻きを食べる人が出てきております。メディアの発達は遅かった明治期ですが、これに似た「流行」がどうやらあったようです。明治も半ば過ぎの新聞ですが、次のような記事があるそうです(前掲書の引用)。

 『京都日出新聞』1899(明治三十二年)正月三日付「恵方参」
 本年の恵方は寅卯(北東〜東)の方なりされば、京都の真中六角堂頂法寺よりいへば東丸太町の熊野社、聖護院お辰稲荷(中略)下京の人は奮発して比叡山無動寺へ参れば信心此上なし、其れとも屠蘇に酔ふた人は神棚を仮に家の寅卯の方に移して拝んで置くも差支えなからん呵呵

 ここではすでに家の中にいて恵方からの歳徳神を迎えるより、恵方の社寺を詣でるほうがご利益は得られるという意識に変化している様子がみられます。


 さらにこれが大正に入る頃になると、(これも前掲書の引用)

 同紙、1916(大正五年)正月元日付「恵方詣」
 京阪電車の広告では八幡(岩清水八幡宮)が恵方とあるし、京電の広告では(伏見)稲荷とある、大分に方角が違ふが(中略)イヤどこでも差支ない、ご賽銭の多い方に福のさづかるのは勿論なり、地獄の沙汰でさへ金ですもの

 これはすでに現在の初詣の感覚と同じようになっているのではないでしょうか。なにより注目したいのは、私鉄の宣伝という面です。明治以来の私鉄各社では、沿線または終着駅あたりに寺社仏閣を配した路線計画がなされたといいます。諸都市に住民が流入し、その新しい都市民の娯楽として「参詣」が位置付けられた時代があったからです。上の記事では京阪電車の岩清水八幡宮、京都電車の伏見稲荷が見えますが、他に近鉄伊勢神宮京成電鉄成田山東武の日光などなど言われてみれば思い当たる節があるのでは?


 私はこの私鉄のコマーシャリズムに乗った「流行」が初詣を広めた側面が強いのではないかと思います。節分の太巻きの件以来ほんとうにそう思っています(笑)


 さてまじめな高木先生の小論の結論も引用しておきましょう(前掲書より)。

 明治維新後の小学校・官公庁における正月元日の祝賀儀式が、宮中の四方拝に連動する地域の儀式となる。官製の正月儀式が国民の意識に実質的に影響を及ぼすのは、教育勅語奉読と御真影の拝礼をセットにした1891(明治二十四年)の小学校祝日大祭日儀式規定の施行から日露戦争(1904〜1905)後にかけてであろう。そうした官製の正月儀式の定着とパラレルに、正月は家に籠るのではなく恵方に向かって参詣する恵方詣が一般化する。これが日露戦争後の神社統合を経て社会的基盤を確立した官幣大社を中心とした神社へと参詣の対象が変化してゆき、都市の新たな住民の娯楽をすくい取るべく鉄道会社が宣伝をしてゆく。かくして画一化した天皇崇敬の官製の理念と国民の御利益願望を表裏とした、初詣が成立するのである。明治維新から半世紀近くかけて、宮中の四方拝が都市から社会全般へと下りてくる。


 結局、伝統とはいっても新しく生み出されたものであったりするので、そこらへんは気をつけなければならないところです。もちろん新しい伝統だからいけないとかいう話ではありません。それが定着しているならば、そこに篭められた意味というものは軽んじることができないものですし。
 たとえばもともとの日本の喪服は白いでしょう?江戸の葬儀でも白の裃が使われましたし、遺族は白い着物を着て死者の死装束とおそろいだったのです。また参列者は晴れ着と申しますか「いい服」を着てくるものだったらしいです。これが変わったのが明治三十年代。皇室の葬儀に絡んで、欧風を真似るという意味で黒い服が取り入れられたものが嚆矢とされます。そしてそれが明治四十年代以降に下々の習慣に降りてきて今や定着しているというわけです。黒と白が葬儀の色になってから、ほんの百年ほどですか…。それでも今、晴れ着で他人の葬儀に出席できるかと言えばそれはできない話。社会常識というのはそういうものなんですね。