宗教教育

 ちょっと記事は古いのですが、世界キリスト教情報からアメリカの公立学校での宗教教育の話です

◎公立学校での宗教の役割を正面から議論=米ノースダコタ州議会=
 【CJC=東京】公立学校における宗教の役割に関する議論が二月五日、米ノースダコタ州議会で激しく交わされた。
 州議会下院は、教師や生徒の自発的な教室での祈とうや忠誠の誓いを行うことを教育委員会が許可することを認める法案を五十三票対四十四票で採択した。一方、上院は、教室に十戒掲示することを、歴史的資料の展示の一部として学校に許可する法案を四十四票対五票で採択した。

 両法案はそれぞれ上、下院に回付される。□


 日本の私学には宗教組織が母体の学校がそれなりに多くあります。また私の知る限り、宗教教育の良い側面(野放図な私欲を抑えるとか、謙虚さを学ぶとか…)を残しつつ、きちんと一般社会とのバランスもとっている(カルト的ではない)ように思えます。文部科学省管轄の学校法人として認められているというのは、ある意味そうした偏りすぎない教育の品質保証があるということでもありましょう。(文部科学省には文句もありますが、学校教育の基準を決めるというところのこれは功の部分だと思います)
 一方アメリカでは、いわゆるモンキー裁判(Wiki「進化論裁判」)の話題をはじめ、何かと日本では信じられない感じでの「科学と宗教」の主張のぶつかり合いが教育の場に出てくるようです。
 これは彼らが「まじめ」に信仰しているからこその世界観の問題なのでしょうが、科学と宗教が同じレベルで対立しなければならないという発想はどうなのでしょう?何か私を含め日本の人は、うまくそこらを違うレベルに布置できているというか、宗教的真理と科学的真理の競合は頭の中で回避できていると思いますね。


 日本では枯れた信仰(というと語弊がありますが、昔から社会に位置付けられているもの)の宗教教育に対しての不安や疑念は親も持っていないみたいで、カトリック、仏教などの大学、附属やなんやらの小・中・高で昔から存在する私学は、却って雰囲気がアピールするようですね。人気校も少なくないでしょう。その信仰にあまり関わりの無い一般の人の入学も自然にあるみたいですし…。


 ちなみにうちの母が中学だけ地方のカトリックの附属へ行っておりまして、未だに「叩けよさらば…」などと時々言い始めます。曹洞宗のくせに(笑。また余談ですが、地方の小さなカトリックの短大に就職した友人は、ボーナスがしばらく出ていないともらしていました。ただし「ここの大学は金儲けでやっているのではないから、簡単につぶしたりはしません。月給もカットはしません」というようにも言われているみたいですし、彼は何と言ってもそこの教え子と結婚できましたので、文句を言うと罰があたるでしょう…。


 今日はこの話にID(Intelligent Dedign)の話も絡めて書こうと思っていたのですが、それは明日にします。
 それより、上記世界キリスト教情報のページにはちょっと興味深い次の記事がありました。

◎小麦以外のパンは聖体と認められず=「食べられない」時どうする=
 【CJC=東京】米ボストン近郊ナティックのジェニー・リチャードソンちゃん(5)は、子供たちが大好きなハンバーガーを食べられない。誕生日のケーキもダメ。と言うのも、小麦などのタンパク質(グルテン)を受け入れない症候シリアック・ディジースが認められるから。そして今、カトリック教会で初聖体を受けることになって、問題が深刻化した。ぶどう酒とパン(ウエファー)の内でパンを食べては大変なことになる。ジェニーちゃんはご飯を食べられる。
 そうは言っても、ボストン大司教区は、教会が二千年の伝統と信仰から、これまでの小麦を使ったパンの代わりに米を使ったパンを使うことは出来ない、と家族に伝えた。AP通信が報じた。

 ダグ・リチャードソン氏とジャニス夫人の相談に小教区のダン・トゥメイ司祭は、パンの代わりにブドウ酒で聖体を受けてはどうか、と答えた。夫妻は同意しなかった。バーナード・リー枢機卿からも、教会が例外を作らないことを説明した手紙が来た。

 リチャードソンさん一家は今メソジスト教会で礼拝を守っている。パンとブドウ酒はそのままキリストの肉と血になるというカトリック教会の見解に対し、メソジスト教会は、肉と血の象徴としてパンとブドウ酒を捉えているので、その成分にはこだわっていない。

 「それは難しかった。変えるという決断をすることは難しい」と母親、ジャニス・リチャードソンさんが言う。

 米国では二百五十人に一人が同様の症状を示すと推測されている。ボストン大司教区のジョン・B・ウオルシュ報道担当は、パンに小麦を使わない訳には行かない理由がたくさんあるとして「どちらでも良いという問題ではない。宗教的な秘跡に関することがらだからだ」と言う。

 バチカンローマ教皇庁)は一九九四年、「(グルテンを含んでいない)特殊なホストは聖体を受ける時には無効」との指示を司教宛てに出している。□


 これを読んでちょっとおや、と。確かantonianさんのところ経由で伺ったとてくのんさんのところで、

 パンとぶどう酒が手に入らない地域では別のもので聖餐式を執り行う、といったことも聞いたことがある

 と書いてあったの(6月3日の記事)を思い出したからです*1。聖餐云々ですから記事で書かれているのはおそらくプロテスタント系のことかなと思いますが、バチカンの指示でどうやらカトリックの人たちは「小麦粉のパン」でしか聖体拝領ができないようですね。
 だから、このジェニー・リチャードソンちゃん(5)のように親も含めて信仰をやや変えざるを得ない人たちもまだまだ出てくることでしょう。(ジェニーちゃんはこれがネックで帰正式をやってカトリックに戻ることはできないでしょうね。彼女が成人してからなら、親御さん達は戻ろうと思えば戻れるでしょうが…)


 ただ一つ、こんな具合にアレルギーなどでどうしようもなく儀礼典礼)についていけない人がでるとして、それを誰も「差別」だとは言えないと思うのです。柔軟に新しい状況に応じて変わるのも、律儀に伝統を守っていこうと考えるのも、どちらもあくまでこの信仰集団内部のことであって、それが絶対的な不正義だと「差別」呼ばわりすることはできないことだろうなと考えますね。そしてそれに合わせることができなければ、リチャードソンさん一家のように自ら離れることはできるのです。それをよしとしない人が多ければ、その集団が寂れていくだけです。また聖体の成分にこだわるのはおかしいと思う方でも、他に不満がなければカトリックであり続けることはもちろんできるでしょうし、信仰の内容や信・不信の基準などにはほんとうに他者が口を出すべきじゃないだろうなと思うわけです。


 我田引水で申しますと、靖国神社A級戦犯を合祀しているからと言って、そこに関わりの無いものが「それはおかしい」とか「分祀しろ」とかいうのは筋違いであり、いやなら靖国に関わらなければいいのです。
 また、靖国神社の主張を以って「先の大戦を正当化している。だからそこに首相が参拝するのは戦争の正当化を意味している」などと鬼の首を取ったようにおっしゃる方もおられますが、教義の端々まですべて受け容れてそれを信仰している人ばかりではないのは当たり前のことにも思われます。しかも神道ですから。靖国の主張などにあまり関わりなく、お参りしたい方はお参りするというのがむしろ古来の神道らしい行為ではないかと私は考えます。そういうことなどをちょっと感じた次第です。

*1:まあこの話には関係ないですが、面白記事の紹介でもありましたので、笑ったことと絡めてそれを覚えておりました