反宗教主義

 上智大学の先生であった八幡康貞氏の言葉を引用します。八幡氏とは靖国神社やその他の考えでいささか意見を異にいたしますが、反宗教主義という御示唆には感銘を受けました。

 最初に確かめておきたいことは、全国民を巻き込んだ戦争の犠牲者の霊に対し、政治の最高指導者が、敬意と感謝の念を表すために参拝することは、当然、宗教的意味合いの行為ではあるが、国家の政教分離の原則とは矛盾しないということだ。
 政教分離とは、まず第一に、宗教団体の政治への介入や影響を排除すること、第二に、国家が特定の宗教団体に偏った支援をしないことである。国家或いは地方公共団体が、宗教的なものと一切関係してはならないという解釈は、政教分離ではなくて、むしろ「反宗教主義」でしかない。国家がある人物の死を国葬をもって弔う場合も、その人物が属している、あるいは信奉していた宗教の儀式で行っても問題はないはずだ。

 これはいささか古く2001年に書かれた言葉なのですが、今なお靖国をめぐる諸議論に一石を投じるものであると思います。特にここでの政教分離についてのクリアな考え方に、二年前の私は結構影響されたのを思い出しました。(実は今日、お気に入りを整理していて偶然見つけたのですが…)

 人の死を弔うという行為はそれ自体宗教的な事柄である。それはむしろ特定の宗教以前の、普遍的な人間的行為(人間は、宗教的動物である)であり、宗派を問わず行われていることである。旧ソビエト連邦は、反宗教主義と無神論をイデロギーの基礎にした共産主義国家であったが、その旧ソ連が、ベルリン攻防戦のソ連軍戦没兵士追悼のために建設した広大な記念施設には、特定の宗教色こそ表現されていないにしても、きわめて荘厳で宗教的な雰囲気が満ちあふれていた。あのような国家においてさえ、民族の戦争の犠牲になった兵士を祈念するにあたっては、どうしても、「宗教的」にならざるを得なかったのである。従って、死者を弔う公式行事を、いっさいの宗教色を払拭した様式で行うというのは不思議なことであり、死者に対する非礼でさえある。日本ほど、政教分離を曲解し、事実上反宗教的である国家は、自由世界では他にその例を見ないといって良い。

 これは首相の参拝問題のみならず、国立の戦没者追悼施設を作るかどうか、作るとすればそこのあり方はどうすべきかなどというところにも重要な示唆となっているのではないでしょうか?
 私のイメージでは、沖縄の「誓いの礎(いしじ)」やアーブの「忘れじの広間」のような形で犠牲者と申告のあった方々の名を刻む施設と、多目的のホール(いかような宗教儀礼にも応じるもの)をつくり、全国戦没者追悼式をもう少し拡大して、希望者はできるだけ参加できるようにしたうえで式典が執り行える形にしたら、議論してもよいのではという感じです。


 いずれにせよ、靖国神社の参拝に一言いわれる方には、自分が知らず知らず反宗教主義になっているのではないかと自問されることをお勧めしたいと思います。