えびす  名称から見たその信仰 

 「ヱビス信仰」と言ったときの「ヱビス」という名称は、三つのタイプに分けて考えられます。一つには「」の字で表される類のもの、また一つには「蛭子」というもの、そして「恵比寿・恵比須」等の字があてられるものです。そしてそれぞれが、ヱビス信仰の異なった側面を見せているように思われます。


 まず「夷」についてですが、これは昔中国で異民族を蔑んで呼んだときの[東夷・西戎・南蛮・北狄]の下の漢字を、やまと言葉の「ヱビス」に宛てたものです。戎や蛮という漢字にも、エビスの音(おん)があります。また、もともとヱビスという言葉は、大和朝廷の初期に異民族と考えられたエゾ−蝦夷からの転(訛)といわれ、その語意からこの漢字が宛てられたものです。(エゾ〜大和朝廷に服さず、奥羽以北に住していた民族。平安初期には同化。現アイヌではないと言う説有力。言語・風俗が異なっていた。)辺境、小島などに住む者達のことも、古くはヱビスと言いました。
 この語が示すヱビス信仰の側面は、境界の神・山の神・他界(海上など)の者−神的存在に対する信仰であり、この信仰の最も原初的な層をあらわしていると考えられます。


 次に「蛭子」(ヒルコ)についてですが、これは記紀の国生みにでてくる不具神です。イザナギイザナミが天御柱を回り交合するときに、先に(女の)イザナミが声をかけたので、(水)蛭子が生まれてしまいました。二神は、このいわゆる「できそこない(〜三年足立たずともいわれる)」を船に乗せて流してしまった、と言う神話に登場するものです。西宮の夷社の神体はこの蛭子だと言われています。類似の神話は世界各地でもあり、例えば台湾のパイワン族における、

 その昔、洪水で人々が流されてしまい、二人の兄妹だけが残った。二人は夫婦になり子どもを生んだが、盲で手足の片輪な子だったので捨ててしまった。

などという神話はかなり似ていると感じられるでしょう。天地(あるいは人間)の(再)創造、そこにおける男女二神、最初の子の不完全性→遺棄といった同質のモティベーションが見られるのです。
 他にも沖縄の、日神(ヒヌカン)の長子のできそこないの子をニライカナイへ流した神話や、少々ずれてはいますが、旧約聖書の「出エジプト記」におけるモーゼの出生譚〜生まれてすぐ葦船で流された、なども類似性を持つと思われます。貴種流離譚とも違っているのですが、なかなかに興味深いです。
 この蛭子という語が「えびす」と訓まれるのも、ヱビス信仰の境界性・他界性を表しますが、水−海との関連性、あるいは神道やその他の信仰と習合する面、反体制ではなく非体制といった側面、などを前者より強く表しているだろうと思われます。


 また「恵比須・恵比寿」というような語は、ヱビスが現在のような福神として定着して以降の(つまり比較的新しい)縁起の良い漢字を使った当て字です。
 この語の専ら福神としてのヱビスのあり方は、商業神・市場神としての側面を最も多く見せているでしょう。(大阪の今宮神社の十日戎は、字面こそ「戎」ですが、この三番目の側面の類型として考えられると思われます。)