武家モデルの影響(考え中)

 人はモデルを以って自分を作っていきます。全くモデルがなかったという方は、おそらく社会生活が不可能な人だけではないでしょうか。裏を返せば意識せずとも「どう振舞うのが人間か」という基底的なレベルも含めて、誰かの影響無しに自我は形成できないということでもあります。
 ところがその影響の仕方はおそらく千差万別で、親を含む数人の影響が強かった場合や、学齢期になってからの友人や先生の影響が多かった場合、思春期に死ぬほど嫌いになった人からの反面教師が一番だったり、少しずつ違うタイプに影響されてメインがさっぱりわからない…などいろいろなケースが考えられるでしょう。
 しかし自分が育った社会、言語・文化を含むその環境の影響というのも馬鹿にできるものではないと私自身は考えています。むしろ半ば意識的に影響される「憧れの人・英雄的な人」よりも、何だかわからないうちに影響されていた社会的風潮の方が、自分で気づかないだけに抜きがたく染められている場合が多そうです。
 もちろん現代みたいにオーソリティーがわかりにくく複雑化した時代よりも、メディアの発達も進まず人々の行動半径が狭かった時代の方が、周囲のコミュニティーなどの影響がストレートに個人に強く働きかけたであろうことは容易に想像できると思います。


 さて話がやや複雑なのですが、そうやってモデル(影響される対象)が自我を作っていくとはいえ、そのモデルはある程度自発的に取捨選択できるという微妙なところを持っています。だからそれを好悪で判断すると単純に考えても、自分がなりたい方向、好きなタイプへどんどん自分で自我を形成していくということはあるかもしれません。また一つの社会の中にも、必ず複数のモデルとなるべきタイプは存在します。社会に従順な人が多数を占めるところでも絶対に社会に反抗的な人は現れるわけで、それを見た多数派が前者に重きをおくとしても、必ず社会に違和感を感じて後者にモデルを採ろうとする少数者はでてくるでしょう。これだけでも最低二つのモデルですね。だから社会に影響されている、というのは最終的に自分の責任を免じてくれるものではないのです。
 また、そのモデルは自分の限界ある認識で受け取られるものですから、自分による理想化その他の歪みはどうしても避けられないとも言えます。おそらくそれでよいのでしょう。誰か心から尊敬し崇める人を持ったとしても、本当にその全人格を赤裸々に知ってしまえば、なかなか無条件に賛美しがたいものでしょうから。だから、自分が見つけた「光輝く美点」みたいなものは、おそらくフィクショナルなものです。しかしそうした抽象化が加えられたものだからこそ、自分への影響が強く出る部分があるはずです。フィクショナルだからこそ有効になるということなのかもしれません。


 江戸時代の武家がすべて武士らしかったかというと、それはあり得ないとは思っておりますが、武家の理想とされるモデルというのは確かに時代が生み出していたと思いますし、それにアイデンティファイすることが武家の人生をわかりやすく形成したということはあると考えます。同様に商人道徳や(悪い意味でなく)農民根性なども、その身分に生きるものにとっての目安として働いたでしょう。モデルは多様ですから、それだけを以って型にはまった生き方ということはむしろ言えず、肯定的に見れば「生きやすさ」とか「シンプルなライフスタイル」などというものとして、人々に寄与していたかもしれません(笑。
 ところが明治のご一新以降、建前としての四民平等、それなりに自由な選択が許される時代になりますと、自分にあったモデルなどというものは基本的に保証されないことになってきます。武家の商法などというものは、当然の悲劇的帰結だったかもしれませんね。武家のモデルを最上のものとしつつ商売をしなければならなかったのですから、よほど運がよいか、たまたま商才があったりしない限り難しかったことと思います。


 さてさて、こういう話を考えてみたのはなぜかと申しますと、実は現在に至るまで(半ばフィクショナルな)武家モデルや商人モデルなどの生き方が(理想−モデルとして)結構残っているのではないかと思えるからです。
 漠然とした見方ですが明治からしばらくの間、日本が富国強兵を進めるのと期を一にして「武家モデル」が称揚され、一般の人にもかなり広まったのではないかと思っています。徴兵制もそれに一役買っていたでしょう。戦う人のモデルとしては武士しかいなかったわけですし。また日清・日露の戦役で勝てたというのも尚武の傾向を強めたかもしれません。そしておそらく「金儲け」ができたのは武家モデルを採らなかった人だったはずです(笑。
 大正期には異なった流れもあったと見えますが、一般の人に浸透していった武家モデルこそが、日本には「恥の文化」があるとルース・ベネディクトに見せたものではなかったかと大胆なことを考えたりしています。土台一つのキーワードで日本社会を説明しようなどというのは無理なことではありましょうが、そこに「恥」という言葉が表れたのは、「武家」のあり方を善きものとする人々が多く日本にいたという傍証ではないかと私には思えます。
 武家モデルは「恥を知る」ものであり、「名誉」を重視し、「実利を求める」ことを潔しとしません。また自分の生命に関して「未練を持つ」ことは駄目なこととされます。そんな立派なお武家が江戸時代にどれだけいたかということは問題になりません。あくまで一つの抽象化された理想形としてのモデルですから。
 武家モデルが自己形成に大きく影響した人が多数を占めていればこそ、松岡外相が国際連盟脱退で席を蹴って堂々と出てきたことに快哉を叫ぶ人が多かったのではないか、なんて思えてしまいます。そして武家モデルの悪いところである「計算することを潔しとしない」とか「精神主義」とか「名誉を傷つけられたことに対して利害を見ずに怒る」とか「尊大になりがち」とか…、そうしたものが大東亜戦争時には良くない方向に行ってしまったのかなとも思います。少なくとも民意は開戦に喜びましたし、戦争協力は喜んでなされたものでしたし、冷静に損得を考えて戦争を考えることは「良くない」と輿論が思っていたのですから…。


 戦争末期にある程度継戦を厭う気持ちが人々に現れてきたのも事実でしょうが、なんと言っても武家モデルですから、なかなか弱音が吐けないし意地を張ってしまいがちです。意地の張りすぎではあると思うのですが、兵士のみならず民間人の玉砕という悲劇も、決して「無垢の民が洗脳されて」起きた悲劇ではないと考えます。
 あれは武家モデルを採った者にはある意味「当然の選択」として見えてしまうものなのです。それまでの生き方を否定し、ひっくり返して生きるには「敗戦」というショックが必要だったのでしょう。戦争末期自決に近い形で、少なからぬ人は自分の行き方に殉じた形で死ぬことになってしまったと私には思えるのです。


 だから「バンザイクリフ」で死んだ人たちを「一部の悪の戦争指導者」の責任で殺された人、と見るような意見には与しません。複雑な背景をきちんと考察してこそ、ほんとうの歴史の反省があると思っておりますし…。


(※というわりには放言に近い考察で申し訳ありません。頭の中のことをそのまま出したぐらいで、練っていない内容ですので。ただ、最後の一節がいいたくて、衝動的に書いてしまいました…)