一つの命題

ある意見を批判的に取り扱う場合は、そのひとの言を十分に引用して読者に示すのは、文章を書くものとしての道徳的義務である。

 すでにこの命題ですら一つの「文脈」の中にあり、この部分だけを切り取って正当性を云々するのは難しいことではあります。ただ「正論」に思えるのは確かなことで、思わずわが身を振り返ってみたくなりました…。


 とは言え「一般論としては」むしろ言い過ぎの部分にあるとも感じられたわけです。(ということでもともとの文脈と切り離したお話を…)


 まず第一感は、参照conferじゃだめなのかなということが浮かびました。批判点を要約して、あとは批判対象の論文なり書籍なりの出典を挙げて、確認は読者にお任せしますと。そういうことは結構ありますから。
 そう考えてみると、文章の主題やサイズという「下部構造」(笑)が意外にこの問題を規定しているんじゃないかと思われてきました。「文章を書くもの」がプロを指すならなおさら「何字で書くか(書かねばならないか)」ということが問題になりますね。そういう字数制限があるところでは、上記命題は必ずしも真とはいえないなと…。いえ厳密な字数制限がない場合でも、全体に対するバランスというものもあります。
 主題(これには媒体のことも関わります)がどこにあるかで、批判に割くべきバランスというものはある程度決まってくると思えます。路傍の石の一個一個まで綿密に排除すべき、とは「一般には」言えません。また自分のイイタイコトがその批判にどうしても関わるなら別ですが、傍論的な挿話での批判に血道を挙げると主題がむしろわかりにくくなってしまうということもあります。また媒体が目的とする読者層にも当然関わることですし…。ということで大まかな結論として「一般論としては偽」ですね。後はもともとの言葉が発せられた文脈での正当性の話ということです(ちょっとすっきり)。


 蛇足ですが、全ての議論を自分のところで完結して提示しなきゃいけないのかな、ということも思いました。ここらへんはむしろ私が往々にして批判される部分なのですが、あらかじめ仮想敵の反論を用意して言い訳してしまう…これで書いたものがくどくなってしまうんですよね。日記ですらそういうくどさがにじみ出てしまう(笑)。だからむしろ私は、私の先生や先輩からの批判「読者をあなどるな。想定される批判ぐらい読む者にだってわかるんだ。必要があれば聞いてくるだろうし、そこで答えればいい」という言葉を金言にして、できるだけくどくならない文を書くことに励みたいと思う次第です。