−"シェルター"に駆け込むこどもたち−(続き)

 NHK特報首都圏」で放送された、17歳の少年の「立ち直り物語」。
 前半は昨日の日記で…

Mさんの登場

 ここでスタッフで児童相談員のMさんが登場します。彼は「長年心を開こうとしない少年とつきあってきた」と紹介されていますが、わりに朴訥な感じの50代くらいの男性です。Mさんはこう語ります

 彼はいろんなことを話せなかった。自分の気持ちを。ほんとの一番深い心の部分を話せなかった。彼はそういうほんとの気持ちを出せなかったんで、私は、ゆっくりでいい、考えようよ。そしてほんとの気持ちで、自分の人生決めていこうよっていうことを話して…

 粘り強く話しかけるスタッフに、少年は一ヵ月後のある夜、自分が本当に思っていることを初めて打ち明ける…とナレーションが入ります。


 彼が話した本当の気持ちというのは

 自分は人が殺したいんだ。
 
 包丁を買いに行きたい。

 というものだったとMさんは語ります。
 Mさんは少年を叱ります。そして初めて心を開いた少年に

 君はひとりじゃない。自分は何を聞いても決して逃げない。

 と語りかけたそうです。そしてMさんは、いろんな人と話してごらん。自分の気持ちを聞いてもらってごらんということを話し、少年は非常に安心した様子で「寝るよ」と言って

 すごいいい顔で出て行きました

割り込み感想

 とにかくMさんが「ほんとの」「ほんとの」と連呼するのがすごく気になりました。また、そうして引き出した少年の「ほんとの気持ち」が「人を殺したい」というものだとは…。
 大変な勘違いだと思いましたし、その立ち直りの具合も(番組を見る限り)あまりにあっけない。え、それだけで良かったの?という気になりました(もちろん一緒に過ごした一ヶ月を無視しようとは思いませんが、それにしても人を殺すとまで思い詰めていたはずなのに、これではちょっと)

現在の少年のインタビュー

 一人じゃないんだから、もうちょっと俺たちを信用して欲しいって言われて…。言われたのが嬉しかったです。孤独だったから。そんな事は今までになかったす。本当に一人じゃないって率直に思えた…。

少年の手記5

 もう一人じゃないって言われて、すごく嬉しかった…。


 そして凍っていた孤独という心の氷が溶けたように、たくさんの涙が出てきた。


 そして2ヶ月後、少年は父親と面会。Mさんの勧めで少年の手記を読んだ父親は、息子の気持ちを初めて知った…とナレーション。
 Mさんはこう言います。

 「わかった。お前の気持ちもわかった。だけど家族だろ?皆一緒に暮らそうよ…」
 お父さんがそこまで気持ちを本人に訴えてくれました。お父さんなりに、きちっと子供に対する強い思いもあるなっていうのを、そこで感じました。これは大丈夫だと思いました。

アナウンサーのまとめ

 少年を救ったのは、自分の存在を認めてくれるおとなとの出会い。
 

 そして本当の気持ちを話すことのできる場所が見つかったことでした。

 番組のエピソード部分はここで終わります。25分番組中、18分過ぎのところでした。


思ったことを…

 実は、最近の子供の悩み、そしてキレる子供たちの一つの事例とは、こんなに「あっけないものか」というのが第一印象です。これなら、もしかしたら防ぐシステムもできるかもしれないと漠然と思いました(すぐに具体策を思いつくでもないのですが)。


 この少年の事例が一般的なキレる子のケースと同様のものだとすれば、関係性の修復があれば問題のかなりの部分をなんとかできるのではないでしょうか。まず親という立場、子という立場、先生と生徒、おとなと子供の物語の修復ですね。確かに一方的な刷り込みはもはや社会的に信がおかれないでしょうが、ひとたび崩された物語が壊れたままに放置されている気がしています。新しい物語を模索して作る必要性があると思います。自分がどう動くべきかの大枠がない場合、その自由という呪縛に押しつぶされる者もでるからです。


 そしてこの少年に自分の価値を認める契機を作れなかったのは、親・学校、そして社会のミスであったのかもしれません。単純な話、自分を愛せないものに他者の尊重は難しいのかもしれないと思います(極端な自己愛は論外ですが)。また、愛してくれる人を大事にする気持ちが、他の者への慈しみに広がるとも考えますので。
 自己承認の機会のことに関しては、それこそ恋愛におけるもてるもてないの話にも関連しますが、たとえば恋愛だけに偏重した価値がおかれるのはおかしなことですし、様々な契機を考えて作っていく方向は少なくともシステムとしてできることだと思うのです。


 表現力については昨日述べたぐらいです。付け加えるとすれば、実践力という意味での表現力を含めて個々人のばらつきは認めるとしても、全体的なレベルの底上げはある程度可能でしょう。そしてそのためにも多様な側面での肯定的評価を子供に与える機会を増やしていくのは重要なことであると思います。


 蛇足ですが、番組に登場したMさんが「ほんとの」という言葉を連発したのにはちょっと閉口しました。これは、「本当の自分」があって、それが出せないのを問題とする一つの(手垢のついた)古いモデルではないかと感じるからです。
 こういうモデルを採用すれば、それこそ「自分探し」なんかをしてしまうことになるわけです。しかし探したって「本当の自分」など容易に見つかるものでしょうか?(この意味で昨日、安易な「立ち直り話」は嫌いだと申したのです)


 私は「自分」とは関係性だと思っています。それは様々な局面において個性的な反応を(そしてまた共同体の他の成員と同様の反応を)示すブラックボックスです。しかもそれは刻々と変化することもあるのです。集中統御モデルは誤解を引き起こす種になってしまうとさえ思うときがあります。
 もともと自我は文字で書かれたものではありません。それを言語化しようとしても、必ずずれが生じてしまうものです。「本当の自分」という表現は、何か言葉で表すことができる実体的な一つのものを指してしまっているようで、それが弊害をもたらすこともあろうと考えるのです。
 しかしこのケースは悲劇的な結果につながらなかっただけでも十分評価できると思いますし、実践的方法としてMさん以上に私が知るとは言えませんので、これに関してはもう語るのをやめておきましょう。
 わずか25分の番組でしたが、ある程度事例が素直に表現されていたため(それほど演出されていなかった感がありますので)考えさせられる良いものだったと思いました。