さびしいということ

 幾山河越え去り行かば 寂しさのはてなむ国ぞ 今日も旅ゆく
                若山牧水海の声』、1907年、より

 「寂しさ」というものは外からの条件で決定されるものでしょうか?
 おそらく違うでしょう。一人でいても孤独を感じないこともありますし、多人数でいても孤独を感じることもあります。それぞれの人の孤独感は、その人にしかわからない色を持っているのだと思います。でも他の人の「寂しさ」に共感することもあります。もしそうでなければ、牧水の歌に何の意味があるでしょう。
 寂しさにも多分深い寂しさとそうでないものなどいろいろあるとは感じます。また深い孤独感が人に何事かを教え、それが人生を変える転機となることすらあるでしょう。ですがそういう孤独を感じることができる時が人生にそう何度もあるとは思えませんし、普通の人が孤独を感じ続けることは往々にして「不善」となるのではないでしょうか?


 ホットワイアドの記事「寂しい人たちのコミュニティー」

 何百ものさまよえる魂がGoogleに自分の気持ちを「寂しい」(I am lonely)という言葉で打ち込んだ結果、ネット上にかりそめの自助コミュニティーが誕生した。


 自分の気持ちを検索エンジンに吐露したことで検索者たちが導かれたのは、『ムービーコーデック・コム』の「誰か寂しい私とお話しませんか?」(i am lonely will anyone speak to me)と題されたページだった。ムービーコーデック・コムは本来、デジタルビデオの愛好者向けのフォーラムだ。


 1年近く前、名も知れぬ孤独な人物が自身の孤独感をつづったスレッドを立ち上げたのが始まりだった。そして、Googleの検索システムの後押しにより、このフォーラムは寂しくてどうしようもない気持ちを打ち明ける人たちの避難所となった。彼らはこのサイトを自分たちのものにして、1500件近くの投稿と70ページにもおよぶ気の滅入る話を書きつづっている。


 この記事に出ているフォーラムを「(ネット)コミュニティー」と称するのは間違いか考え無しではあると思いますが、避難所というニュアンスにはピンとくるものがあります。
 寂しさを感じるのは人それぞれ、またそれを感じなくなる(あるいは最低気にならなくなる)契機も人それぞれですが、誰ともつながっていないと思える時には、何でも救いになりそうなものは必要だと思います。「いのちの電話」とまでは言いませんが、ちょっとした気鬱を何らかのコミュニケーションでちょっとだけでも晴らすということは大事なことでしょう。
 孤独を昇華することができるならば、それがある種の結実をもたらすこともありましょうが、大抵は昨日、一昨日に紹介した17歳の少年のように、ただの鬱屈として精神に負荷となり、場合によってははけ口を求めて犯罪行為につながることにもなるでしょう。

 寂しさのあまりこのフォーラムにやってきた人々の多くが、1人ぼっちなのは自分1人だけではないと知り、慰めを感じている。

 ある投稿者は「Googleに『寂しい』と打ち込む人がこんなにもいるのは悲しいことだ。しかし幸いにも、今なら何とかできる見込みがある。悲しくて本当に寂しければ、私に連絡をくれればいい。そうすれば、互いの寂しさが紛れるかもしれない」と記している。


 「寂しさが紛れる」というのはとても重要な働きです。私はどういう状況にある人でも、最終的に寂しさから解放されるということは無いと考えています(解脱とかした人はわかりませんが)。だから、せめて寂しさに感情が支配されないよう、それがあまり持続的にならないようできることはすべきだと思います。
 ほんの少しのことで、寂しいという感情で一杯にならずにすむことは結構あるのですから(それが一時的にせよ)。それを弱さと感じたり恥じたりする必要はないでしょう。

 これよりもはるかに胸が痛む言葉による検索も行なわれている。ニューヨーク在住のクリス・コンロイ氏によると、同氏のサイト『ドゥー・ユー・フィール・ラブド?』には、Googleで「いつになったら愛されるのだろう?」(when will i be loved?)という言葉で検索した人々が絶え間なくやって来るという。


 もし本当に寂しさ(孤独 loneliness)を感じた人たちが、素直に寂しさを打ち明け、慰めを得るためコミュニティーができたとします。もしそれが本当にコミュニティーとして機能すれば、つまり集った人々が「寂しさから解放されれば」、すなわちそれは寂しい人たちのためのコミュニティーとして機能するのを止めることになるでしょう。自分自身(の存在意義)を無くすために働く、それがあるとすれば一種不思議なコミュニティーだと言えるでしょうね。