イメージ

キリスト昇架

LALALA LALALA Zingen Zingen Kleine Vlinders
LALALA LALALA Zingen Vlinders La La
(ラララ ラララ 歌え歌え 小さな蝶々)
(ラララ ラララ 歌え蝶々 ララ)

 アントワープの聖母大聖堂に今も飾られているルーベンスの≪キリスト昇架≫と≪キリスト降架≫の2枚の祭壇画は、『フランダースの犬』のネロとパトラッシュがその最期に見ることがかなった絵でした。実際作者のウィーダはアントワープ旅行から帰ってすぐにこのお話(A Dog of Flanders, 1871)を書いたと言いますので、彼女はこれらの絵からネロたちの昇天のイメージを触発(というより吹き込まれ=インスパイアされ)、それが強いモチベーションになったと想像できます。


 私は『フランダースの犬』でネロがこの絵にこだわったのは、彼の(花開く前に散った)「画家の魂」のようなものがそうさせたのだと受けとっていました。生まれながらの才能を持ち、「第二のルーベンス」になれたかもしれない彼が求めて止まなかったすべてのものが、この絵に象徴されているのだと考えていたのです。
 しかしその後、そういう考え方だけでは何か見落としているような感じになりました。作者の意図というのでもないのですが、これがルーベンスの絵である必然性が何かあったように思えたのです。


 何年も前、私は退官される先生のお部屋の整理を手伝い、そこで何冊かの本をいただきました。その中には創刊間もない頃からの『現代思想』のバックナンバーなどがあり、たまたま目を通している時に坂崎乙郎氏(当時早稲田大学教授)のエッセイを拝見することになりました。(坂崎乙郎「イメージの領域−画家の夢」、『現代思想』1973年6月号(第一巻第六号)所収)

 ドーミエの有名な『トランスノナン街』にしても図像学的にはルーベンスの『キリストの死を悼む』の翻案に近い。けれども盛り込まれた内容、死体に対する画家の想像力のありかたは月とスッポンのちがいがあるではないか。このさいドーミエの想像力ははっきり「社会」を意識し冷酷に事件を眺めているので、ルーベンスにおける宗教的意味あいはまったくない。
 とすると、宗教的情熱一片もなくレアリスムの洗礼も岸田劉生で終わってしまった日本の画家が、印象派やフォーヴのみを後生大事に守ってきたわれわれの画家が幻想といいシュルレアリスムとうそぶくのは少しく滑稽ではないだろうか。

 絵画の分野には暗いのですが、このエッセイが厳しく日本の画家たちを責めているものだということは感じられました。そして、ここで言及されている「ルーベンスの宗教的意味あい」というものが、私にわからなかったものなのではないかと思いついたのです。


 これは単純にキリスト教の宗教伝統のことを知ればわかるといった類のものではないとも思います。むしろ近代人である私が、いくらそこに意味を見出そうと「考えて」みてもなかなか辿りつけない象徴的意味、その意味を実感として「感じる」ことができるかどうかというそういうところの問題なのではないかと…。

 マルセル・ブリヨンの『幻想芸術』の翻訳以降、日本でも幻想絵画の流行をみた。一見「幻想芸術」となるとなにがしか珍奇でグロテスクと解釈しがちだけれども、ブリヨンの挙げた画家は揃ってリアリティを具えているからけっして単なるグロテスク趣味ではない。幻想とは実のところ現実とは異なる次元のリアリティのことで、ここではイメージは画家の極端な偏執、なかば狂気と境を接した夢の定着化にひとしいのである。夢の持続度といいなおしても正しい。

 こちらの言葉を借りるならば、ルーベンスの絵に込められた夢の意味がわかるのかどうかということです。それは作者の意図は作者しかわからないとか、その時代の人でなければわからないとかいう「相対主義的」な意味あいとはちょっと異なるもので、私の中にその宗教性を共有できる部分があるかどうかという問題であるような気がいたします。
 実際、何日か前のNHKの『世界宗教遺産』の番組で、ルーマニアの教会や修道院の外壁が聖人や聖者などの(稚拙なタッチの)宗教画で埋められているのを見たとき、正直な感想として「美」を捉えることはできませんでした。少なくとも現代の一般の日本人の感覚ではあれを素直に美しいと言える人は少ないのではないでしょうか?(あるいは私だけ特に鈍いのかもしれませんが)


 坂崎氏はさらに続けます

イメージとは可視と不可視の両界にまたがるわれわれの想像力であって、表現された場合に現実以上のリアリティを持ち、イメージの豊穣さとは他ならぬこの想像力の有機的展開である…

 私などはイメージといえばすぐに「視覚的に捉えられる何か」と思ってしまいますが、ここで氏が語るのはそういうものを超えたイメージの話です。歯がゆいのですが、わかったようでわからない何かがここにあるようにも感じます。
 足りないものは信仰でしょうか?歴史の共有でしょうか?伝統に受け継がれたある種の感受性でしょうか?
 もしこの日本の古い美なら、私には黙っていてもわかるのでしょうか?
 でもだとすると私は永遠にルーマニアの感性に届かないことになってしまわないでしょうか?

 幻想といえば雲だ蝶だ、ライヘナウの花の女だ、シベリヤだと騒いでいるむきになんという貧困なイメージを発見することだろう。想像力とはわれわれ眼にするごく微小な世界を可能性を軸に漸次きりひらいてゆく不可視の部分であるから、時を必要とし、画面の構築も一階一階である。ほんの水差しひとつ描いても幻想的な画家があれば、いっぽう世界の没落を主題にしても噴飯ものの画家がいるのである。

 まだまだ私にはルーベンスの夢を共有することもかないませんし、ルーマニアの教会画の深い意味もおそらくわかっていません。でもいつかそういうものの一端でもわかる瞬間が来て、そして『フランダースの犬』の持つ、何かもう少し違うものにも気付くときがくればいいなあと願っています。