先祖とお盆(補遺)

 先日タマ迎えの儀礼について少々述べましたが、大谷大学岩田慶治氏が東南アジアの民俗を調査なさった資料を見つけ、日本の習俗との類似性に少なからず思うところがありましたので、それを紹介いたします。
(※なお以下の話に興味をお持ちの時は、岩田慶治氏の『日本文化のふるさと―民族と文化の同一性(アイデンティティー)を探る』角川選書、1991や『カミの誕生―原始宗教』講談社学術文庫、1990などを参照ください)


 岩田氏がごらんになったのはラオス・タイあたりの稲作民の生活と信仰の一部であり、氏はここにアニミズムとしての「日本・東南アジアの宗教の原型」を見て取ります。それは「草木虫魚に宿る神」であり、氏の定義による「束の間の存在である人間が永遠の存在である大地(自然)に触れて、その経験の表現として草・木・虫・魚のかたちに−音、形、色、力に−カミを直観する形式」としてのアニミズムです。

ラオス北部

ラオスでは仏教が土着の信仰と共存していた(仏教は外来の信仰であり、状況は日本と似ている)
・「ホー・ピー(ピーの家)」と呼ばれる社(やしろ)が各村にあった。ピーとはカミに相当する語。
・ホー・ピーは木造のつくりで、茅葺の切妻平入りの型の質素(粗末)なものがほとんどだった。
・このあたりのホー・ピーはほとんどが大きいものではなく、高さ120cmぐらいの小屋で、中はがらんどう。
・祭の際にはここに供犠の豚や鶏がつるされるそうで、三つの石でつくられたコンロに相当するものも備え付けられていた。ろうそくや花も捧げられていた。
・社(祠堂)の前には杭が立てられ、「象をつなぐ柱」「馬をつなぐ柱」と呼ばれていたが、これは本当の動物をつなぐものではなく、カミの乗り物としての象、馬をつなぐという宗教的意味を示すものであった。
・二棟ならびの社もあり、その場合一方が村を守るカミの社(ホー・ピー・バーン)、もう一方がその村を含む地方を守るカミの社(ホー・ピー・ムアン)であった。(※バーンは「むら」、ムアンは「くに」の意)
・ピー・バーンは村という地域社会のカミというより、村びとの祖先のカミという説明がなされていた。
・高さ4mほどの社で人がさかんに参るものがあったが、中には金色の仏像がおさめられていた。


 ラオスの宗教としては今まで仏教に偏った研究報告が多かったのですが、実際のところ民衆宗教としての古来の信仰も残っておりました。ホー・ピーは日本の地蔵堂ぐらいのサイズイメージかと思います。蝋燭や花、線香があげられるのは仏教の影響でしょうか、そんなところも地蔵堂などを彷彿とさせます。また家々に屋敷神もあったとのことで、どこか日本の習俗との関連性を思わせます。
 祖先に対する信仰では日本より「家」に対するこだわりは薄いように思われますが、これは社会制度の違いに由来するようです。

東北タイ南部(クメール族の村)

・社の背後には必ず立木があった。(祭りの際に去来するカミの通路になっているとの説明)
・クメール族の社には必ず木彫りの神像、あるいはそれに代わる依り代があった。その多くは二柱の木偶で、一方が男の祖先神、他方が女の祖先神ということであった。
・木偶の背丈は通常5、60cmほどで、素朴に丸木に目、鼻、口、手などが刻まれたもの。まるい石に白布をかけ、三角の石に黄布をきせたものもあったが、これは黄衣の僧、白衣の尼の連想によるものだろう。
・こちらでも村のカミは祖先のカミとされ、ドン・ター(おじいさんのカミ)とプー・ター(おばあさんのカミ)と言われていた。それは直接の祖父母を指さず、村人みんなの祖父母を指しているという説明であった。
・カミは祭りに際して去来するものであって、祠堂に常住するものではない。木偶はあくまで依り代である。


 「この地域は双系社会で親族のヨコの繋がりが強く、タテのそれは弱い」というのは岩田氏の観察です。世代ごとの紐帯が弱いため、祖先が共同体の祖先としてあると申しますか、みんなの祖先神という存在になっているわけです。ムラの守り神に近いですね。
 ただしここでのカミの在り方、祭りの時に戻ってきて依り代に憑き、祭りを終えると帰っていくというスタイルはまさに日本のカミのもともとのあり方と同じであると言ってよいと思います。

 ラオス・タイ・カンボジアの水田耕作民の間では、年二回、二月と五月の祭りが広く見られる。二月の祭りは日本の収穫祭に相当するものである。祭りを取り仕切る者として、東北タイではチャム、カオチャム(神役)とティアム(巫女)が知られているが、クメールの村では二人のアチャール(祭司)が祭りを仕切り、巫女にあたるマ・ムアットは祭りには現れなかった。


 ここで一つの祭りについてのあらましを…

 クメールの二月祭り

  1. 家ごとに供物を用意し、社の部屋に並べる。(新米で炊いたご飯二皿と魚と野菜のスープ。ちまき、繭、タバコなど。盛った飯には線香を立てる)
  2. アチャール(祭司)が二人やって来て社の左右に立つ。(日常、一人は吉事、一人は凶事の分担だが、祭りの日は同じ仕事)
  3. 祖先神ドン・ターが降臨する。このときアチャールが「オーオー・オーオー」と声をあげてカミの参加を喜び、そのカミを待ち受ける。そうこうするうちにカミが依り代によりつく。
  4. 水を注いで祖先神の手を洗う(依り代の手の部分に水をかける)。その後供物をすすめ、これまでのカミの守護に感謝する村人の言葉。それに対しアチャールがカミに成り代わって供物をいただく旨を告げる。
  5. カミと村人との対話が続く(しゃがんでいる村人が五人ほど立ち上がり、村人や家畜の健康についてのお願いを述べ、カミがそれに応える)。
  6. カミと村人の応答がすむと、アチャールはカミにタバコと食事をすすめ、しばらくしてカミはお帰りになる。帰る前にまた手に水を注いで汚れを洗う。
  7. 「オーオー」という村人の声に送られて、カミは天上に帰っていかれる。
  8. 社の中の供物をとりおろし、近くの堤防の上にならべ、子供を交えた村人がみんなでこれを食べる。
  9. その後村人は思い思いに家に帰り、その夜暗くなってから米倉の祭りが行われ、稲の神ニアン・プラプイ・スラオに供物がそなえられる。


 固有名詞を少し変えれば、これが日本のどこかの地方の祭りだとしてもあまり違和感を感じないことと思います。かの地方でも直会(なおらい)が祭りにはつきもののようです。祖先神のご来訪を受けての神人共食という形など、このように海の南の地方の宗教を見ることによって日本の宗教の姿がよりはっきり見えてくるような気がいたします。(※考察が中途ですが、これから出かけなければなりませんのでここらへんで…)
(本文の引用は、岩田慶治「日本の神、東南アジアのカミ」よりです)